福間洸太朗(Pf)
NAXOS/8.570261J
山根銀二という音楽評論家は、
1950年に武満徹のデビュー作「2つのレント」を「音楽以前である」と評したことによってのみ、音楽評論史(そんなものがあるの?)に名を残すこととなりました。これは、吉田秀和翁がホロヴィッツの日本での演奏に対して発した「ひびの入った骨董品」というフレーズともに、彼らの本来の評論が忘れ去られることがあっても必ず後世に残るものとなるでしょう。もちろん、山根氏のコメントは、半世紀以上も前の日本の「現代音楽」の状況を的確に反映したものとして捉えるべきもの、それによって彼の評論家としての洞察力が貶められることは決してありません。
武満のピアノ曲は、「2つのレント」の前年に作られた「ロマンス」を皮切りに、
1989年の「リタニ」まで、十数曲のものが残されています。今回の最も新しい録音による作品集には、そのうちのほぼ全曲が収録されています。「ほぼ」と言ったのは、
1962年の作品「コロナ」が含まれていないからです。今でこそ、武満と言えば押しも押されもせぬ大作曲家として多くの人の支持を受けていますが、この頃はかなり「実験的」な作品も手がけており、「コロナ」はその代表とも言えるものでした。通常の五線紙は用いられることはなく、5枚の色紙に描かれた円周にそった曲線や点を、演奏家が各々の解釈で音にするという「不確定性」の音楽です。初演者である高橋悠治(左:
WAVE/C25G-00032は入手不可、小学館の「武満徹全集」で聴くことが出来ます)と、ロジャー・ウッドワード(右:
EXPLORE/EXP0016)のCDでその演奏は聴けますが、もちろんそれぞれのやり方で「図形」を「音」に変換していますから、全く別の音楽としてしか私達の耳には届かないはずです。
この曲が作られたときにも、そして、録音されたとき(いずれも
1973年)にすらも生まれてはいなかった福間洸太朗にとっては、図形楽譜などというものは完璧に楽譜の概念からは遠くにあるものに違いありません。「コロナ」と同時期の、こちらは普通の記譜法で書かれた「ピアノ・ディスタンス」でさえも、先ほどの武満と同時代を生きた2人のピアニストに比べると、全く別の背景から生まれてきた曲のように聞こえてはこないでしょうか。福間の演奏からは
70年代にはまだ存在していたはずのある種ひたむきなムーヴメントの残り香のようなものは見事に消え去り、過去の偉大なマスターピースとしての洗練された顔のみが現れていると感じられるのは、もしかしたらその時代の思い出を体のどこかに残している者の特権なのかもしれません。
最近の他の「武満のピアノ曲のアルバム」と同様に、「コロナ」と入れ替わりに近年多くの人に聴かれるようになった「うた」のテイストを色濃く秘めた「微風」と「雲」という、NHK教育テレビの「ピアノのおけいこ」のために作られた曲が加えられたことによって、このアルバムも晩年に丸みを帯びてしまった作曲家の姿が的確に反映されたものに仕上がりました。この中では最後に作られた曲「リタニ」が、「2つのレント」を楽譜を見ないでそのまま「再作曲」したものであることが、彼の創作遍歴の象徴であると思われるのは、あるいは作曲家にとっては不本意なことだったのかもしれませんが。
日本で企画されたこのナクソス・レーベルの日本作曲家シリーズは、これまでのところ順調にリリースを続けているように見えます。ただ、
日本の代理店のサイトを見てみると、「9月いっぱいで解散します」みたいなことが書いてあるので、ちょっと不安になってしまいます。同じところに「録音が完了したものについては販売します」とありますが、これはそれ以上の録音はもう
なくそすとしている、と受け取るべきなのでしょうか。