おやぢの部屋2
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笑えるクラシック
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樋口裕一著
幻冬舎刊(幻冬舎新書
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著者の樋口さんという方はまったく存じ上げないのですが、経歴を見てみると専門の音楽評論家ではないようですね。小さい頃からクラシック音楽を聴き続けているという、筋金入りのクラシック・ファンというところでしょうか。専門家が陥りやすい、変に読者に媚びたところがまったく見られない、直球勝負の潔さが感じられる、秀作です。
まず、「まえがき」の、「クラシックの演奏家は、音楽を勉強としてとらえている」というあたりで、快哉を叫びたくなってしまいます。そうなんですよね。クラシックの演奏家、特に日本人の場合、これがあるからどうしても堅苦しい演奏しかできない人が多いというのは、常々感じていたこと、ここまで言い切ってくれた著者の勇気は、大いに讃えられるべきでしょう。そもそもクラシック演奏家などと威張っていても所詮は「芸人」なのですから、それを「大学」で「勉強」などしたりしたら、なにか肝心なものが身に付かずに終わってしまうことでしょう。
そして、次の「実は笑える曲なのに、真面目に演奏されている名曲」という章が、まさに秀逸の極みです。最初にやり玉に挙がるのがあのベートーヴェンの「第9」。この、高い精神性を秘めたものと誰しもが認める「名曲」の、中でも終楽章を、「ドンチャン騒ぎ」と決めつけているのですから。しかし、よく読んでみると、そのクレバーな分析によってこの楽章の本質を表しているものが見事に明らかにされる様を体験できるはずです。そもそも「歓喜の歌」のテーマがなぜあれ程陳腐なのかも、筆者によって、なぜこんな「酔っぱらいでも歌える歌」になってしまったかを説かれれば、納得しないわけにはいかなくなってしまいます。今まで、この曲を崇高な人類愛の現れだとして特別な思いで聴いたり、あるいは演奏していた人たちは、顔色を失ってしまうことでしょう。それほどインパクトのある、これはすごい発想です。
続く「ボレロ」での、著者の実体験に基づく「真の姿」の解明も、なかなかスリリング、あのエンディングは「なんちゃって」なんですって。そこで引き合いに出されている指揮者が、大好きなアントニ・ヴィットというのも、ちょっと嬉しくなってしまうところです。
このぶっ飛んだ解釈が、そのままのテンションで残りの曲にも及んでいれば、さぞかし迫力のあるものが出来たのでは、と思うのですが、ただ、それでネタが尽きてしまったのか、意表をつかれたのはここまで。それ以降のシュトラウス(もちろん、リヒャルト)やショスタコーヴィチでは、誰でも知っているまっとうな「おかしさ」しか紹介されていないのですから、それこそ「なんちゃって」とかわされたような気持ちになってしまいます。
その失望感は、次の章、「正真正銘笑える名作オペラ」になると、さらに募ります。いや、普通これだけ書かれていれば十分「おかしさ」は伝わるはずなのですが、巻頭であれだけのテンションを見せつけられてしまっては、とてもこんなものでは「笑う」ことなどできません。そこにあるのは、どんな案内書にでも述べられているような誰でも知っている「あらすじ」と、そこから見られるただの、ということは、なんの裏もない素直な「おかしさ」だけ、そこには意外性も驚きもまったくありません。なにしろ、ここの読者はこんなぶっ飛んだオペラ本を体験しているのですから、これしきのもので「笑う」わけにはいきませんね。
とは言ってみても、この本からは著者の長年にわたるクラシック歴から得られた、真に聴くに値するものに対する嗅覚の鋭さのようなものは十分に感じ取ることは出来ます。巻末にはそんな著者が選んだ代表盤が収録されていますので、一度心を洗濯してきれいにしてから(「洗えるクラシック」)これを聴いてそんな感覚の一端を共有してみようではありませんか。
by jurassic_oyaji | 2007-09-06 19:58 | 禁断 | Comments(0)