おやぢの部屋2
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SHOSTAKOVICH/Symphony No.5
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Christoph Eschenbach/
The Philadelphia Orchestra
ONDINE/ODE 1109-5(hybrid SACD)



ショスタコーヴィチの交響曲、いや、全作品の中で最も親しまれているのは、この交響曲第5番ではないでしょうか。特に、フィナーレのかっこよさは誰しも興奮を覚えるもの、この部分のテンポ設定を巡ってマニアックな分析などを語り始めようものなら、いっぱしのショスタコおたくへの道をまっしぐらに走り始めるまでにはそんなに時間はかからないことでしょう。しかし、そのような表面的な華やかさに酔いしれているうちに、もしかしたらそこには強烈な毒が込められているのではないかと気づく日が来るはずです。その時こそが、真の「タコヲタ」への入り口なのです。
エッシェンバッハがここで企てているのは、この曲における二面性をはっきりとした形で提示することでした。つまり彼は、ショスタコーヴィチが曲を作るにあたって「本気モード」で作った部分と、「おちゃらけモード」で作った部分とを誰にも分かるように描き分けているのです。第1楽章あたりは、さしずめ「本気モード」でしょうか。2003年に音楽監督に就任して以来、確かな信頼関係を築きあげてきたフィラデルフィア管弦楽団から、彼は極上の響きを引き出しつつ、作曲者の本音を紡いでいきます。例えば弦楽器の華やかになってしまう一歩手前の音色が、それを見事に表現していくのです。極端にゆっくりとしたテンポに乗って、時折、いったいこの先どこへ行ってしまうのだろうという不安に駆られるほどの空虚なたたずまいが現れたときには、まさに指揮者の術中にはまってしまっていることを自覚するはずです。
そして、第2楽章が、普通の演奏ではよく見られるキビキビとした面持ちではなく、なんとももっさりとしたテイストで始まったとき、これが明らかに「おちゃらけモード」の音楽であることに気づくことでしょう。跳躍の多い大げさなメロディ、派手な身振りの空騒ぎは、決して額面通りに受け取るべきものではない、もっとどす黒いアイロニーに満ちあふれたものに聞こえてはこないでしょうか。そして、それを仕上げるのが、ひとくさり踊りまくった後の終止に向けてのこれ見よがしのリタルダンドです。チェロのピチカートに乗ったヴァイオリン・ソロの、見事なグロテスクさも、要注意。ただ、これと同じことをやるフルートが、フツーに生真面目な演奏となっているのが、ちょっと惜しいところでしょうか。
第3楽章は、もちろん「本気モード」満載の、充実した仕上がりです。ここでもエッシェンバッハは、じっくりと作曲家の肉声を届けるべく、あらゆる手だてを仕掛けてきます。中でも格別に印象深いのは、ちょうど真ん中あたりでしょうか、ヴァイオリンのかすかなトレモロだけを伴奏に奏でられるオーボエのソロの部分です。その楽章の寂寞感をすべて一人で背負い込んだその音色と、絶妙のノン・ビブラートは、まさに絶品でした。それに応えるクラリネットも、暗い音色は見事なものです。ただ、そのバックで吹いているフルートに、ビブラート過多の明るさがあるのが気になります。それはちょっとした不都合の予兆、その後でそのフルートのソロが巡ってきたとき、その、何も考えていない一本調子なケナーのビブラート(まるで、ウニャ・ラモスのケーナのような)に、失望感を味わうことになるのです。2回目のCの音も外してしまっていますし。
ここまで聴いてくれば、フィナーレが「おちゃらけモード」であることは誰にも分かります。行進曲の馬鹿騒ぎは、どんなテンポで演奏しようが、いや、へたに小細工を弄するだけ、その「毒」が効いてくるのがよく分かります。もちろん、美しいホルンソロで始まる部分からは一瞬の「本気モード」が始まります。そこで「強制された歓喜」の正体を体験した後では、行進曲の再現は滑稽なものでしかあり得ません。
すごすぎます。エッシェンバッハ。
by jurassic_oyaji | 2008-05-16 21:01 | オーケストラ | Comments(0)