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マイケル・ジャクソン THIS IS IT
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 きのうは、久しぶりのなにもない休みの日だったので、「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」を見に行ってきました。邦題で英語のスペル、というのは珍しいですね。とは言っても原題はただの「THIS IS IT」ですから、やはりそれだけでは分からないと、余計なものが付いてはいますがね。
 最初は2週間限定の上映(私は、これを「2日間限定」と勘違いしていました)だったものが、あまりに興行成績がよいもので、急遽さらに2週間延長を許可してもらったということですから、もしかしたらチケットが買えないかもしれないと、かなり早めに行ってみます。しかし、利府のMOVIXでは、「殆ど空いてますよ」という返事、後ろ寄りのど真ん中が簡単に取れてしまいましたよ。というか、映画が始まっても、利府で一番広い500人収容の4番シアターは、ほんの数十人入っているだけでした。私の列なんか3人しかいませんよ(2人+1人、私はもちろん○人)。これでは2週間で打ちきりかも。
 この映画の内容は、誰でもご存じのことでしょう。マイケルが亡くなる直後に予定されていた大規模なコンサートのリハーサルをシュートしたものです。リハーサルとは言っても音楽もダンスも殆ど本番のレベルに完成されていますから、それを大画面で見るのはほとんどコンサートの会場に行っているようなもの、確かにすごい音でした。というか、これだったら会場のPAよりもはるかにクオリティの高い音なのではないでしょうか。なんでも、東京あたりの映画館では曲が終わると拍手が湧いたそうですが、もちろん利府のこんなガラガラなところではそんなことはあり得ません。やはり、上演直後に来れば良かったな。
 印象的だったのは、ステージの後ろにあるLEDスクリーンのものすごい画質です。ほとんど映画のスクリーンと変わらないぐらいの解像度のように見えてしまいます。そこで写すためだけに、わざわざスタジオで撮影したというのですから、ハンパではありません。それと、マイケルと並んでギターを弾いていたブロンドの女性ギタリスト、オリアンティ・パナガリスですか、かっこよかったですね。
 もちろん、それ以上にすごかったのが、マイケル自身です。不幸なことにその晩年はミュージシャン、アーティストとしての姿はかなり歪曲されてしか伝わっては来ませんでした。しかし、ここで見られるマイケルの才能には、やはりものすごいものを感じてしまいます。彼がこれほどまでに卓越したミュージシャンであるとともに、その根っこにある音楽に対する情熱、あるいは音楽の力を信じる強い心が、リハーサルのはしはしから痛いほど伝わってきます。
 そして、なによりも、これだけの準備を重ねていたにもかかわらず、そして、この映画を見る限りそんな兆候は全く見られなかったにもかかわらず、マイケルの死によってこのコンサートが実現しなかったことに、涙さえ湧いてきました。
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by jurassic_oyaji | 2009-11-04 23:25 | 禁断 | Comments(0)
仙台フィル定期演奏会
 久しぶりに、仙台フィルの定期演奏会に行ってきました。なんといってもヴェルディの「レクイエム」を演奏するのですから、何をおいても聴きに行きますよ。実は、この曲を生で聴くのはこれが初めて、楽しみです。
 実際は、一番楽しみだったのは合唱でした。半年以上も前から市内の4つの合唱団がこのために集まって練習を重ねていたことを知っていましたから。その合唱団というのが、毎年コンクールで常に上位を占めて、全国大会で金賞などという輝かしい経歴と、もちろんそれに見合うだけの実力を持っているところばかりなのですからね(1つだけコンクールには参加していないところもありますが、そこも実力は折り紙付き)。
 その合唱は、本当に素晴らしいものでした。それだけ長期間練習していたことで、4つの合唱団の寄せ集めという感じは全くなくなっていて、完全に一つの合唱団としてのまとまりを見せていましたね。声は滑らかで表現も自由自在、合唱が出てくるところは、本当に音楽に浸りきることが出来ました。
 ところが、ソリストがソプラノを除いてよくもこれだけひどい人を集めたものだと思うほどの、ひどさ。テノールはコンディションが悪かったのでしょうが、あんな声で歌っているのではプロとは言えません。バスはなんという音程の悪さなのでしょう。それでいて突拍子もないような「見栄」を切ったりしますから、もう最悪。この人が歌い出すと音楽全体の緊張感が全くなくなってしまいます。メゾの人も音程の悪さは我慢の限界を超えています。
 ですから、最後にソロがまわってくるソプラノの人のお陰で、やっと聴いていて心地よい音楽が始まったような気がするほどでした。ほんと、ソプラノソロと無伴奏の合唱だけで歌われるところは、まさに至福の思いでした。
 こうなってくると、最大の功労者は合唱だったのではないかという気になってきます。オーケストラ?なんだか、威勢の良いところではすごい迫力でしたが、繊細な部分では完全にこのものすごい合唱の足を引っ張っていたのではないでしょうか。冒頭の「Kyrie eleison」や、最後の「Libera me」など、この合唱団の力をもってすれば、もっと緊張感のあるピアニシモを出すことも可能だったはずです。それが出来なかったのは、オケにそれに見合うだけの力量が備わっていなかったからではないでしょうか。「Offertorio」でのチェロのパートソロのひどさが、それを物語っています。仙台フィルって、いつからこんなにヘタになってしまったのでしょう。
 このホールも、その欠陥をもろにさらしていました。ステージが狭いものですから、合唱やソリストはこんなことになっています。
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 ソリストがこんなところにいたのでは、オケと合わせることなど不可能です。もういたるところでズレまくっていましたね。そして合唱は、なんと半分は階段に立たされていましたよ。この曲では、ソリストが歌っている間に合唱が座って休めるところがたくさんあるのに、実際に座ったのは「Lacrimosa」のあとだけ、ステージの上はちゃんとベンチがありましたが、階段の人はその階段に座らなければならず、それはかなりみっともないものでした。それを避けるために、敢えて1回しか座らさなかったのかな、と勘ぐられるほどです。あるいは、もしかしたら、こういう大きな曲をやるときにはこんなみっともないことになってしまうホールでしか定期演奏会が出来ないことのデモンストレーションのために、山下さんはこの曲を取り上げたのかもしれませんね。他のオケのように、合唱団がすんなり立ったり座ったり出来るホールを、早く造ってくれ、と。
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by jurassic_oyaji | 2009-10-23 23:37 | 禁断 | Comments(0)
原田節/オンド・マルトノ
 今年の「せんくら」は、なぜか平日のきのうからの3日間という日程です。いつもはもう1週間あとの3連休にやっていたのに、なぜ?という感じですが、おそらくその時期には「よさこい」という全国から暴走族が集まるお祭りがあるので、とてもそんなときにお上品なクラシックのコンサートなんて、あぶなくてやっていられないわ、ということだったのでしょうね(本当か?)。
 年々内容が薄くなっていく「せんくら」、年を追うごとに足を運ぶコンサートは少なくなっていって、ついに今年は行きたいと思ったのは原田節さんのオンド・マルトノのコンサートだけしかなくなってしまいました。それが、きのうメディア・テークで行われました。
 この会場でコンサートといえば、定禅寺通りジャズフェスティバルでのオープンステージしか知りませんでしたから、そんな、まわりに無関係な人たちがうようよいるような場所で、この繊細な楽器を聴かなければならないとは、と思っていたのですが、行ってみるとそこは天井までしっかり隔壁が立てられていて、完全に密閉した空間になっていましたよ。こんなことが出来るなんて、初めて知りました。そこで、初めて実物を目にしたオンド・マルトノです。
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 まさか、とは思ったのですが、まだお客さんもほとんど入っていないうちにステージの前に行ってこの写真を撮ったところ、係員が「会場内での写真は禁止されております!」と、まるで今撮ったメモリーを消去しろ、みたいな剣幕で迫ってきましたよ。なにをバカなことを言っているのでしょうか。去年だってつのだ☆ひろ、ではなくてつのだたかしのコンサートでは、始まる前には珍しい楽器を写真に撮っている人がたくさんいたというのに。演奏中ならいざ知らず、ただ置いてある楽器を撮っただけで悪者呼ばわりをするのは、なにか、コンサートというものを根本的にはき違えているとしか思えません。
 そんなお粗末な光景は、もう一つありました。私のすぐ後ろの席にすでにおばちゃんが座っているところへ、さっきの係員が「ちょっと座席番号を確認させて下さい」とやってきました。確かに同じ席のチケットを持った人が来てたのですが、よく見るとそれは別のコンサートのチケットだったのですよ。これはまず、モギリでなんの確認もしなかったのと、その係員がまずチケットを確認しなかったという、二重のお粗末さです。
 そんな嫌な思いをさせられたにもかかわらず、そのおばちゃんたち(団体)は元気よくおしゃべりをしていました。どうやら、この楽器のことは完璧に知らない人たちのようでした。「おんどまるとのって、なんだべねえ」とか「どんな音がすんのっしゃ」という話が聞こえてきます。すると、そのとなりに座っていた男(赤の他人)が、やおらおばちゃんたちに向かって話しかけてきました。「あれは、鍵盤は付いているけど、それは使わないで、アンテナのようなものに手を近づけたり離したりして音を出す楽器なのですよ」・・・あのねえ、それはテルミンのことじゃないですか。なにも知らないと思って、おばちゃんたちにいい加減なことを教えないで下さいよ。こういう人、よくいますよね(確かに、オンド・マルトノのプロトタイプはテルミンのコピーでしたから、あながち嘘ではないのですが、ここにある楽器とそれは全く別物です)。
 そんな場違いな人たちの前に現れた原田さんは、ペインティングされたデニムのジャケットという奇抜なファッション、いいですねぇ(これはサイン会での写真)。
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 まずミヨーやメシアンのオリジナル曲を演奏する間に、軽いトークで、楽器のことなどをおしゃべりしてくれます。おおよそのことは知っていたのですが、特にスピーカーに関する話はとても面白いものでした。共鳴弦が張ってあったり、なんと銅鑼に共鳴させて金属音(まるで、スチール・ドラムみたいな音でした)を出すスピーカーだったり、確かにこれは現代の電子楽器とは全くコンセプトの異なる、アコースティックな楽器であることがよく分かります。面白いのは、仙台と原田さんとのつながり。あの「独眼竜政宗」のテーマ曲の中でオンド・マルトノを弾いていたのは原田さん、初めて仙台に来た原田さんは、その縁を確かめるために、しっかり松島や瑞鳳殿にまで行ってきたそうなのです。
 最後に原田さん自身の作品が演奏されました。この楽器の一つの属性である「リラクゼーション」に焦点をあてた、ほとんど自然音の模倣(それは、その前に演奏されたメシアンの曲に頻繁に現れた鳥の声の模倣にも通じるものなのでしょう)による音楽は、この楽器の今まで知らなかった側面を感じさせてくれました。櫻澤弘子さんのピアノも、とても素敵でした。
 平日とあって、お客さんはまばらでしたが、仙台で生のオンド・マルトノが初めて音を出した瞬間に立ち会えた興奮は、今も残っています。
 終わったら、お客さんはステージに殺到して、携帯でバシャバシャ写真を撮っていましたよ。さっきの係員には、もはやそれを制止する力はありません。
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by jurassic_oyaji | 2009-10-03 21:33 | 禁断 | Comments(1)
合唱コンクール東北大会
 先週の週末は、一泊で秋田に行ってきました。秋田なんて、学生時代に合唱団の演奏旅行でいったきり、もちろんその頃は新幹線なんてありませんから、ずいぶん遠くまで行ってきたような記憶があります。ですから、その初めての「秋田新幹線」に乗るのが、一つの楽しみでした。いや、厳密には「東京までの秋田新幹線」には、何度も乗っています。つまり、「東北新幹線」と呼ばれている「はやて」の後ろには、いつでも6両ほどの「秋田新幹線」がくっついていて、「はやて」が満席の時にはこの「こまち」に乗って東京まで行くことも良くあったのです。しかし、今回は「秋田までの秋田新幹線」という、文字通り初体験となります。ちょっと興奮しますね。
 仙台から盛岡までの車窓からは、よくこのあたりを車で走っていたときに見えた景色が反対の立場で見えていました。そして、いよいよそこから東北新幹線に別れを告げて、秋田方面の線路となります。話には聞いていましたが、これは「ミニ新幹線」という中途半端なタイプのもので、盛岡までは正規の新幹線のスペックなのですが、そこから先はなんと在来線と同じものになってしまうのですよ。ですから、まわりの景色はぐっと近くに寄ってきて、刈り取りが始まっている田んぼなどは、すぐ目の前に迫ってきます。しかも、この線路はそれこそ昔秋田に行ったときに乗った田沢湖線そのものですから、単線、途中で車両のすれ違いのために乗り降りのない駅で停車する、などという、およそ「新幹線」とは思えないようなローカルなたたずまいです。
 このけったいな新幹線のとどめは、秋田の一つ前、大曲駅を出るときでした。なんと、そこからは車両全体が後ろ向きに走り出したのですよ。まるで、この間東京で乗った東急世田谷線のようなものですね。いや、これは6両全体の座席が全て後ろを向いているのですから、なんとも異様です。車内の表示では、「座席を回転させても結構です」などと出ていますが、そんなことをしたら後ろにいた見知らぬ人と「ご対面」しなければなりませんしね。この指示は、全ての人が回転させることが前提になっているのでしょう。
 後ろ向きに到着した秋田駅は、なんだかとてもおしゃれな建物になっていました。改札を出てすぐのところに立っていたのが、この竿灯です。まさに秋田の象徴ですね。もう少し先には、なんと「生あきたこまち」があの扮装で立っていて、チラシかなんかを配っていましたよ。
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 同じ新幹線で、同じ合唱団の同じパートの人だけが、なんと4人も乗っていたことがその時点で判明、土地勘のありそうな人を先頭にホテルまで歩きます。会場のある千秋公園の前を通ってしばらく行くと、とても道幅の広い通りに出ました。ここがよくテレビに出てくる竿灯の会場なのですね。なんだか、そんな夏祭りのためだけに作ったのではないか、と思えるほど、走っている車が少なかったのが、いかにも秋田。途中で、その日の練習会場が見える、と、その土地勘さんが言うので広~い道路の反対側を見てみたのですが、そんな「なんとかセンター」みたいな建物は見当たりません。いや、確かにそこにあることはあったのですが、近くに行かなければ分からないような、個人住宅のようなところでした。
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 次の日は、午前中はなんの予定もなかったので、今回の目的地、こんなお堀端にある秋田県民会館へ歩いて向かいます。コンクールの東北大会ですね。
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 実は、大昔に秋田に来たときにも、この同じホールでコンサートを行っていました。それは当時でもかなり古ぼけたホールだったような気がしていたのですが、今回中に入ってみてびっくり。椅子や内装がいつの間にか大幅にリニューアルされていたのですね。ただ、この壁に貼ってある壁紙が少し浮いて隙間が出来ているあたりが、ちょっとかわいそう。
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 ここの着替え場所で黒服に着替え、大学の部を聴きます。それが終わって外に出ると、他に2人ほど仲間がやはり出てきたので、3人でタクシーに乗って、その日の練習会場へ向かいます。いくらなんでも歩いては行けないところなので、相乗り、ちょうど3人で割り切れる990円で着きました。
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 そこは、○価学会のなんとか会館というところ、前の日とは比べものにならないほど豪華な会場です。畳敷きにグランドピアノ、というのがすごいですね。
 練習が終わるとさっきとは逆のコース、渉外係の人がしっかりタクシーを呼んでくれていたので、今度は4人ずつの相乗りです。さっき乗ったのと同じ人と乗ったら、その人は「さっき来るときは990円で来たよ」などと言っています。運転手さんはそのプレッシャーに負けて、本当はもっとかかったのに、990円でメーターを止めてくれましたよ。秋田市内は一方通行が多い関係で、必ずしも往復同じ運賃にはならないのですね。
 本番まではかなり時間があったので、まわりを散策、すぐ向かいにあったユニークな屋根の形をした建物は美術館。これは確かに記憶にありました。その前には、ちょっとキモい藤田嗣治の胸像がありましたね。
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 本番では、県大会と同じく、2人のコンパニオンが付きます。県大会とは違って、しっかり全曲暗譜、楽譜も持たないで歌ってみました。私的には格段のグレードアップでしたが、やはり県大会とはレベルが違ったのでしょう、かろうじて銀賞の末席を汚した、という、まあ穏当な結末でした。
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 演奏も終わり、写真撮影、ホールの横手に写真屋さんが控えていて、終わるなりひな壇に立たされます。
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 この人は全体ではなく部分的に撮っていたカメラマン。
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 それからすぐ着替えて、これから演奏する団体を聴こうと思ったら、あとは宮城県勢が2つだけでした。
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 最後のチームがこちら、うちの団とのかけもちがたくさんいるところで、去年は惜しくも全国大会進出を逃したのですが、こんなかっこいい演奏を聴かせても(県大会よりはるかにこなれて素晴らしい演奏でした)やはり上位3団体の中に入ることは出来ませんでした。これは2階席から撮ったのですが、すぐ脇に有名な銀髪の審査員の方がいらっしゃいましたっけ。こういう方には、この合唱団の良さは理解できないのかも。
 ここに出ていた愚妻を待って、駅に着いたらもう発車間近、夕食の駅弁を買おうと思ったら全て売り切れでした。仕方がないので車内販売に期待。ところが、回ってきたカートにはサンドイッチしかありません。なんでも、すでにデッキにいるうちに弁当は売り切れてしまったのだとか。コンクールに出た人が、みんな買っていったのでしょうね。残念、サンドイッチで我慢です。もっと時間があれば駅ビルで比内鶏の親子丼でも食べたかったのですが、あきらめましょう。きっとタマネギが入ってなかったでしょうし。
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by jurassic_oyaji | 2009-09-30 10:29 | 禁断 | Comments(0)
旅の絵本VII
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 安野光雅さんの「旅の絵本」が最初に出版されたのは1977年のことでした。「ふしぎなえ」で絵本作家としてデビューした安野さんの、それは一つのエポック・メイキングとしての作品であったことは、デビュー以来のほとんど全ての絵本を目にしていた私には明らかに思えました。エッシャーの「不思議な絵(「だまし絵」という言葉を使うのは、美術史的には正しくないのだそうです)」の持つ二次元の錯覚の世界を絵本の中に導入した見事な作品群(中でも、「あいうえおの本」はその最高峰です)の、ある種昇華された形で、それは目の前にあらわれたのです。ヨーロッパの風景の中を旅する一人の男という設定の中で、安野さんはそれまで絵本の中で開拓してきたさまざまな技法を、さりげなく描き上げていました。その中に隠してあるそんな「秘密」を解き明かすことは、まさに読者にとっての知的な冒険に他なりませんでした。
 先日、町田市で開催された展覧会にたまたま行ったときに、この絵本がなんと小学校の教科書にも取り上げられていることを、初めて知らされました。もっとも、その教科書の現物を見てみると、「このページの中で、誰がなにをしているのか調べてみよう」みたいな、なんとも的外れな設問があったのにはがっかりしてしまいましたがね。安野さんは、そんなつもりでこの絵本を作ったはずはないのに。
 そんな、本質を見ようとしないファンの存在も取り込みつつ、このシリーズはどんどん新しい場所を開拓して、いつの間にか6巻まで刊行されていました。その間も、安野さんのコンセプトは健在で、前作のデンマーク編では、全てのページにアンデルセンの童話にちなんだものが散りばめられている、といった贅沢なものでした。
 それから5年経って、ついに新しい「旅の絵本VII」が出ました。これは、今までのものとはあらゆる面で大きな違いが見られます。まず、本としての「開き方」が違います。今までのものは「左に」開くタイプ、物語は紙面の左から右へ向かって進むという「横書き」の世界でしたが、今回はその逆、「右に」開く縦書きの世界となっています。それは、もちろん今回の場所が縦書きの文化圏、中国であることの反映です。「旅の絵本」史上初めての、右から左へと進む物語、これは新鮮です。
 さらに、ここでは今まで見せてきた「不思議な絵」の世界はほとんど影を潜めています。その代わり取り入れられているのが、安野さんがこの絵本を作る際にお手本にしたという、古代中国の画家による「清明上河図」という絵巻物の「模写」です。そのために安野さんはわざわざ篆刻印を作って、その部分に押しています。その印がなければ分からないほど、その絵巻物と安野さんの世界は見事に溶け合っています。
 ここで安野さんが描き出した中国の旅、そこには確かに今までの作品の中にもふんだんに取り入れられていた安野さん独特のユーモラスな光景は健在です。しかし、最後の黄土に木を植えるというシーンにつながるなにか重々しい描写の中には、明らかに今までとは異なる世界観のようなものが見え隠れしているはずです。それは、安野さんご自身の心境の変化のあらわれなのかもしれませんね。安野さんは、ここで更なるエポックを打ち立てたのです。
 安野さんが「旅の絵本」の日本編を作るときには、どんなものが出来るのか、本当に楽しみです。
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by jurassic_oyaji | 2009-09-25 20:29 | 禁断 | Comments(0)
スキンの手直し
 ブログ版の「おやぢの部屋2」を、もしこまめにチェックしている人がいるとすれば、その人は刻々その画面が変わっていくので、戸惑っていることでしょうね(いや、実際にそんな人はいるはずはないのですが)。最初はただフォントだけを変えてみようということで、スキンは同じものを使っていました。ただ、ソースコードをいじることによって色々なことが変えられることを実感してみると、今まで不都合に感じていたことも直せないか、と思ってしまいます。一番のネックは、本文の幅でした。今までのスキンは幅が550px、これだと、ものによってはCDの演奏家の名前などが足らなくなって、変なところに改行が付いてしまいます。ですから、これをせめて600pxにしたいと思ったのです。でも、それはちょっと面倒だったので、幅が600ある別のスキンを見つけて、それを採用です(実は、その前にももう一つ候補があったのですが、それはなぜか<B>タグや<BLOCKQUOTE>タグがきかなかったため、不採用になりました)。
 そのスキンは、大きさといいデザインといい、ほとんど理想的なもののように思えました。ところが、なんせお仕着せですから、それと全く同じものを使っている人はいるわけです。フォントだけは違いますがね。それが、実はちょっと以前に訳ありだったブログだったりしますから、そうなるともう一時も同じものを使っているのは苦痛に感じられてしまいます。それからが、私の「スキンいじり」(なんかヒワイ)の日々が始まるのです。まず、一番目立つヘッダーの画像を、自分で作ったものに入れ替えます。今あるのは最終的に落ち着いたものですが、ここに来るまでには何度画像を送り直したことでしょう。いや、実は今のものもほんのちょっとしたところが気になっていますから、そのうちまた変わらないとは限りませんよ。ただ、何回もやっていると手順に慣れてきますから、こんな画像の入れ替えなど、すぐ出来るようになってしまいます。
 その次に色々変えてみたのが、文字の色です。なんとか、サイトの「おやぢ」と同じ体裁をそのまま表示しようとしても、ブログではタイトルにリンクが入っているのでそれだけ別に設定しなければならないのだ、ということに気づくまでに、けっこう時間がかかりましたしね。
 こうして出来上がったオリジナルのスキン、こちらのものと比べてみて下さい。ほとんど原形をとどめないほどに変わってしまっていますよね。とにかく、フォントが変わっているだけでも(とは言っても、Vistaと、メイリオをインストールしたXPでしか、その違いは分かりませんが)なんという違いでしょう。
 でも、不思議なことに、こんなにきれいなフォントなのに、それを採用しているサイトやブログはほとんどありません。私の守備範囲の何十というブログをくまなくチェックしても、CLASSICAさんと、もう一つこんなところしか見つかりませんでした。
 一度このフォントに慣れてしまうと、デフォールトのゴシック体がとても情けないものに見えてしまいます。でも、そんなことにはあまり頓着しない人の方が圧倒的に多いのかもしれませんね。もしかしたら、こんなことに喜んで大はしゃぎしているのは、とても恥ずかしいことなのかもしれません。ちなみに、「どんぶり勘定」さんはOSがWin2000なので、ご自分ではそのきれいさが分からないんですって。
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by jurassic_oyaji | 2009-09-19 22:15 | 禁断 | Comments(0)
メイリオ(明瞭)
 このサイトを作り始めたときから、なにも指定しない時に表示されるゴシック体は大嫌いでしたから、もっぱらHG丸ゴシックM-PROを使っていました。これはもちろん「かいほうげん」で使っているのと同じフォントですよね。ところが、この前JAOの原稿が届いたときに、一人「メイリオ」というフォントを使っている人がいたのですよ。初めて知るフォントでしたが、それはなかなか素敵なフォントでした。全角と半角が混ざっている文章でも、どちらもきれいに見えるのですね。私は今まで丸ゴシックの半角はちょっとみっともないので、わざわざVerdanaにしていたのですが、これだったらそんな必要もありません。でも、これは基本は角ゴシックなので、そこがちょっと、ですが。
 しかし、よく調べてみると、これはWindowsのVISTAから新しく加わったフォントだそうで、確かにVISTAで使っているフォントはきれいだったことを思い出しました。「クリアタイプ」という新しい方式のフォントなので、ウェブで使うと小さな字でもきれいに見えると言うことですね。そこで、まず「禁断」をこのフォントに変えてみることにしました。今のデザインにしたときに丸ゴシックも試したのですが、ここで使いたかった大きさにすると、このフォントはとたんに汚くなってしまったので、いくらかマシの普通のゴシックにしてありました。これをメイリオに変えたら、まさに画面が一変しました。これでこその読むための文字、これに比べたら、今までのものはとても「文字」とは言えないほどの、ただの点の集まりにしか見えません。
 それに味を占めて、ブログのフォントも変えてみようと思いました。と言っても、普通のブログは「スキン」というあてがいぶちのデザインを、何種類かの中から選ぶだけ、フォントまでを指定することは出来ません。しかし、ある程度なら自分で修正することも可能、そのためには「HTMLとCSSの専門的な知識が必要」なのだそうですが、そんなこと、私にはたやすいことです。ついでにスキンそのものももっと使いやすそうな最新のものに変えてみました。旧フォントと新フォントの違いは、こんな感じ、もちろん下がメイリオです。
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 これが、今回の「100万ヒット達成記念事業」の一つです。といっても、その他に何かやるかどうかは、全く未定なのですが。
 ただ、問題は、メイリオはVISTA以降にしか用意されていないフォントなので、いくらこちらできれいに直しても、XP以前のユーザーにはそれが見えない、ということです。しかし、ご安心下さい、正規のXPであれば、簡単にインストールできますよ。それは、CLASSICAさんに教わりました。さっきのフォントの違いの画像も、実はそのパクリなのですが。
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by jurassic_oyaji | 2009-09-17 21:09 | 禁断 | Comments(2)
BALLAD 名もなき恋のうた
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 「BALLAD 名もなき恋のうた」を見てきました。なんと今日が初日。映画を公開初日に見に行くなんてあまりないことですが、たまたま愚妻がコンクールの追い込みの練習で時間がぽっかり空いてしまったのと、その練習会場が幸町だったので、利府には近かったからという2つの理由からです。しかし、なんたってこれだけプロモーションを繰り広げている作品ですから、もしかしたら満員で入れないかもしれません。その時は、次の会を見ても間に合うぐらい、「ヒマ」でした。
 ところが、予想に反して利府の駐車場はガラガラ、チケット売り場も誰もいません。私が見たのは3度目の回ですが、場内は20人いるかいないか。ちょっと信じられません。これだけ見ると、大コケ。まあ、インフルエンザのせいもあるのでしょうかね。私も、愚妻に無理矢理マスクを渡されていましたし。しかし、そんなもの、全く必要のないほどの空き具合でしたよ(もちろん、マスクはちゃんと付けましたからね)。
 予想に反していたのは、映画の出来もでした。なにしろ、あの「三丁目」シリーズを作った山崎貴監督ですから、さぞや泣ける仕上がりになっていると期待していたのですが、とうとうあの時のような「やられた!」というようなシーンは出ては来ませんでした。
 ご存じのように、これは「クレヨンしんちゃん」が原作になっています。マンガでこれの骨組みになるようなものがあって、それを膨らませて劇場用のアニメにしたもののプロットを、ほぼ忠実になぞっているようでした(アニメ版は見ていません)。原作のマンガは例によってお気楽なハッピーエンドになっていますが、それがアニメになったときには、ちょっと「しんちゃん」ではあり得ないようなエンディングになっていたそうなのです。もちろん、今回の実写版もそれが踏襲されているのでしょう、そのエンディングは「それはないだろう」というものでした。というか、アニメでのエンディングをさらに一ひねりして別の形にするのだろうな、と思って見ていたものですから、なおさら失望してしまいました。例えば、しんちゃん、ではなく、しんいちが貸してやった携帯電話が胸にしまってあったから、弾が貫通しなかったのだ、とかね。あの携帯は、そういう伏線だと思っていたのですがねぇ。
 おそらく、これが実写版の落とし穴なのではないでしょうか。マンガにしてもアニメにしても、決して優等生ではない、というか、問題ありすぎのキャラが、たまに真面目な顔をして「よいこと」をやる、あるいは、本人は決して「よいこと」だとは思っていなくても、まわりの状況で「よいこと」になってしまうという、かなり強烈な違和感が、「笑い」なり「涙」なりを与えていたのでしょう。それを、いかにも利発そうな子役にやらせてしまったところが、山崎監督の誤算でした。確かに、この子は可愛いし、笑い顔などはとても救われる思いがするのですが、そこからは生まれる物語は当たり前すぎるものにしかなりません。「しんちゃん」の持っていたキャラが周りの人間との間に作り出す絶妙の世界、それがないことには、アニメを超えることは出来ないのではないでしょうか。
 父親の「ヒロシ」が、ここでは「アキラ」となっていたのは、受けましたがね。しかし、斎藤由貴が出演していたのを、エンドロールで見るまで気が付かなかったとは。
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by jurassic_oyaji | 2009-09-05 20:50 | 禁断 | Comments(0)
CDクッキー
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 「レコード芸術」の最新号を買ったら、なんだか面白い広告が載っていました。「CDクッキー」という新商品が発売された、というのです。「ネットによるCDの自動販売機」みたいな説明も付けられています。つまり、これはネット通販のように実際の「商品」を送るのではなく、その商品の「データ」を販売する、という商売のようです。なんでも、CD1枚分のデータを、直接ユーザーのパソコンのCDドライブの中のCD-Rに書き込む、という方法で、手元には「物」としてのCDが届く、という仕組みなのだそうです。そこで、そのサイトに行ってみたら、そのサービスの母体のレーベルの懐かしいアイテムがいっぱいありましたね。斎藤由貴のアルバムなんかもう廃盤でしょうから、思わず買いたくなってしまいました。「スケバン刑事」のテーマ曲の「白い炎」なんて、大好きです。
 いや、「レコ芸」に広告を出すぐらいですから、クラシックのアイテムも買うことが出来ますよ。さらに、親切なことには、雑誌の本文の方にライターの人が実際にここでCDを作ってみたという記事が載っていました。もちろん、これは「記事」という体裁をとってはいますが、実際はさっきの広告にリンクしている「宣伝」であることは明らかです。そんなことを言えば、この雑誌全体がレコード業界の「宣伝」あるいは「プロモーション」で成り立っているようなものなのですがね。メインの新譜の批評(?)にしても、国内盤、輸入盤を問わずメーカーから貸与(実際は返すことはないのでしょうね)されたサンプル盤を元に書いているのですから、宇野先生を除いては、たとえ気に入らなくとも本当のことなど書けるわけがありません(先生の場合、それがウリだからいいんです)。
 もっとひどいのは、民放FMですよね。朝から晩まで新譜のプロモーションの垂れ流し、こんなものを野放しにしていて、良いのでしょうか。
 テレビなども事情は同じなのでしょう。そんな中にあって、例の「題名のない音楽会」という長寿クラシック番組は、決してプロモーションを受け付けなかったのだ、などということを新聞に書いている人がいました。だから、高いクオリティを維持できたのだ、と。それを書いたのはけっこう良識のある人のようだったのですが、もしかして本気でそんなことを書いたのであったのでは、ちょっと恐ろしいな、と思ってしまいます。この番組、発足当時はいざ知らず、ついこの間まではまさに「プロモーション」だけで成り立っていたものだったことを知らなかったのでしょうかね。あるいは、明らかなプロモーションではあっても、きちんと番組としての体裁が整っていればそれはプロモーションとは呼ばないという感覚になってしまっているのだ、とか。それは、さっきの「CDクッキー」のプロモを、きちんと「記事」だと考えている業界の人だったら、確かにそのぐらいの感覚になっているのかもしれませんね。
 最近司会者が代わったので、本来の「プロモーションを受け付けない」番組に戻ったのかな、と思うのは間違いです。ついこの間も、さるピアニストがクイズ番組のフリをしてしっかりニューアルバムのプロモーションをやっていきましたからね。
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by jurassic_oyaji | 2009-08-21 20:22 | 禁断 | Comments(0)
のだめカンタービレ22巻
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 もうほとんどその存在すらも忘れかけられていた「のだめ」の最新刊、第22巻が発売になりました。この前の「21巻」が出たのが8月11日でしたから、本当にちょうど1年、間が空いたことになります。
 正直、1年もお目にかかっていないと、今までの話などはすっかり忘れてしまっています。ですから、読み始めるなりいきなりミルヒーとコンチェルトなんてことになっていたので、いったいこの1年の間になにがあったのかと思ってしまいましたよ。千秋との関係もなんかおかしいし、やはり前の話をもう1度読まねば、と読みかえしてみて、やっとそのつながりが分かりました。のだめは逆プロポーズしていたんですね。それに対して、千秋はいとも間抜けな対応をしていたと。
 それはともかく、そのコンチェルトが行われたコンサートの描写は、いつもながらのリアリティあふれるものでした。ただ、以前、これだけの力が込められたシーンではしっかり「音」が聞こえてきたものでしたが、ここではそれが体験出来なかったのはなぜなのでしょう。かつては斬新だった手法でも、何度も使っているうちに読者に手の内が読まれるようになってしまったのと、書き手としても、新しい技法を生み出すのではなく、「これだけやれば、これだけ伝わるだろう」という、ある意味ルーティン・ワークに陥ってしまったことが原因なのではないでしょうか。
 このシーンで最も重要なところは、本番でピアノが入ると、リハーサルとはまったく違った弾き方をする、というところでしょう。しかし、それを伝える「絵」が、なんとも分かりづらいのですね。オケの団員ではありませんが、いったいなにが起こったのか、何回も読み返さないことにはそれがどんなことだったのかは理解できませんでした。マンガというのは勢いですから、こんな風に「絵」のせいで立ち止まってしまうのはとても辛いものです。
 こんなとてつもない演奏(なんでしょうね。なんせ、実際に音を聴いているわけではありませんから、いまいち凄さが分かりません)をしてしまったというのに、のだめはすっかり虚脱状態、いったい、この先どのように話を収拾していこうというのでしょうか。もはや、この物語は以前の伏線(そんなものがあったとすれば、ですが)などはすっかり忘れ去られた上で進行しているように見えてしまいます。なによりも、前の巻から引きずって、この巻を覆っているとんでもなくシリアスな雰囲気はなんなのでしょう。なまじ、そこに無意味なギャグを絡ませるだけ、そのシリアスさが救いようのないものに思えてしまいます。来年公開される映画では、いったいどのように整合性がはかられるのか、そんなものが最大の見所として期待される状況は、とても不自然なものに感じられます。
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by jurassic_oyaji | 2009-08-11 20:31 | 禁断 | Comments(0)