おやぢの部屋2
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カテゴリ:ピアノ( 59 )
GODOWSKY/Strauss Transcriptions
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Marc-André Hamelin(Pf)
HYPERION/CDA67626



「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス二世が亡くなったのは1899年、そして、その9年後の1908年から、第一次世界大戦が勃発する1914年まで、ウィーンに居を構えることになったのが、ポーランド生まれ、アメリカ国籍のピアニスト/作曲家ゴドフスキでした。この「三拍子の街」で、彼は誰でも知っているシュトラウスの名作を元にしたトランスクリプション「ヨハン・シュトラウスの主題による交響的変容-ピアノのための3つのワルツ・パラフレーズ」を作曲し、1912年に出版します。その「主題」は、「芸術家の生涯」、「酒、女、歌」という2つのワルツと、「こうもり」というオペレッタです。
いずれの曲も、オープニングはなんともおどろおどろしい、一体なにが始まるのだろうという濃厚な曲調です。そこから、まるで霧が晴れるように聴きなれたフレーズの断片が現れてきて、初めてこれがシュトラウスに由来している音楽なのだな、と気づく仕掛け、しかし、そこまで行ってしまえば、あとはワルツやオペレッタの世界に入っていくのは容易なことです。「変容」などという大層なタイトルから連想される難解な世界は、そこにはありまへんよう
3曲の中で最も楽しめたのは、やはり「こうもり」でした。序曲に現れるワルツのモチーフを基本テーマにして、そこにさまざまなモチーフが絡むという仕掛け。それがアデーレのアリアの前半と後半だったりしますから、かなりマニアック、ファンにはたまらないサービス精神まで感じることが出来ます。
おそらく、譜面づらは真っ黒けになっているのでしょうが、そんな難しさを全く感じさせないのがこのアムランの演奏です。本来は、そんな大変な楽譜に大汗かいて挑戦して、膨大な量の音符を音にする「苦行」の跡をみて感動をもぎ取る、といった趣の音楽なのかもしれません。しかし、彼の場合、必要な量の音符が、必要な時間の中に間違いなく収められているのは最初から当たり前のことだと思えてしまうほどの超絶技巧を備えているために、苦労の跡が全く見えず、逆に物足りなさを感じてしまうという、恐ろしく贅沢な不満が伴うことになります。
このジャケットに使われているクリムトの、いかにも「世紀末」といった雰囲気や、アール・デコ風のフォントのいかにも煌びやかなコンセプトは、ヨハン・シュトラウスを、まさにこのクリムトのようなデコラティヴなものに変えてしまったゴドフスキを端的にあらわしたものなのでしょう。しかし、それを演奏しているのがそんなアムランなのですから、今度はそんなけばけばしさがすっかり払拭されてしまって、なんともさっぱりした仕上がりになってしまっています。そんな、言ってみれば二重に仕掛けられた「トランスクリプション」の結果であるこのアルバム、はたしてクリムトのジャケットはこのCDにふさわしいものだったのでしょうか。
シュトラウスのトランスクリプションの他に、このアルバムではゴドフスキ自身の「三拍子」の曲も演奏されています。24曲から成る「仮面舞踏会」からの4曲と、30曲から成る「トリアコンタメロン」という、ボッカチオの「デカメロン」に触発されたタイトルを持つ曲集からの5曲です。これらはまさに、顔を合わせることはなかった「ワルツ王」への熱いオマージュとなっています。
最後に入っているのが、オスカー・シュトラウスという、シュトラウス一族とは全く関係のない作曲家(ラストネームのスペルはStrausと、sが一つ足りません)の「最後のワルツ」という曲です。実は、この楽譜は出版されていないため、ゴドフスキ自身の演奏によるピアノロールから復元されたものなのだそうです。それを行ったのが、アムランのお父さんのジル・アムラン。やはり、彼にはすごいバックボーンがあったのですね。
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by jurassic_oyaji | 2008-08-20 22:45 | ピアノ | Comments(0)
MESSIAEN/Vingt regards sur l'Enfant-Jésus
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Jaana Kärkkäinen(Pf)
ALBA/ABCD 226



今年は、ルロイ・アンダーソンと並んで、オリヴィエ・メシアンも生誕100年を迎えます。「大作曲家」メシアンと、ヒット曲ばかり書いていたアンダーソンとを同列に扱ったりすると、きっと不謹慎だと目くじらを立てる人もいるかもしれませんね。でも、全く同じ時代を生きていたのですから、この2人の間には、なにかは共通するものがあるのではないでしょうか。
その「共通するもの」というのは、どうやら「どの作品を聴いても、同じ人が作ったことがすぐ分かる」ということではないかという気がしませんか?アンダーソンのシンプルなメロディにちょっと粋なハーモニーをつけた、えもいわれぬあの感触は彼独特の世界。そして、メシアンにも、やはり聴いてすぐ感じられる彼独自の「色」があります。まさに彼にしか出せなかった色彩的な和声、それは、そのまわりを彩る鳥の声の模倣とあいまって、紛れもない彼のキャラクターを主張するものです。
「現代音楽」にはめっぽう定評のあるフィンランドのピアニスト、カルッカイネンが演奏する「20のまなざし」も、最初はそんな親しみやすいメシアンを存分に味わおう、という気持ちで聴き始めました。ところが、なんだかいつも聴いている「まなざし」とは様子が違います。まるで、ピアノという楽器で演奏しているのではないような、不思議な感覚に襲われたのです。最初のうち、それは非常に居心地の悪いものでした。いつもだったらまず味わえるはずのキラキラした音の粒の嵐が、全然感じられないのです。しばらく聴き続けているうちに、5曲目、「御子の御子を見るまなざし」あたりになった頃、そこからははっきり、オルガンの響きが生まれていることに気づきました。そう、その左手のアコードは、減衰するピアノの音ではなく、まるで管楽器のようにいつまで経っても同じ大きさを保っている、あのパイプオルガンそのものの響きだったのです。そして、その響きの中で奏でられる右手はと言えば、音色もタッチも全く別のキャラクター、オルガンでいえば別の鍵盤で全く異なるストップを鳴らしているという感じがするものでした。しばらくして始まる鳥の声の超絶技巧は、もはやオルガンさえも超えたシンセのプログラミングでしょうか。
これは、今までメシアンのピアノ曲を聴いていたときには全く味わうことの出来なかった感覚でした。彼女はスタインウェイのD-2741台で、まるでフルオルガンのような響きを作り出していたのです。いや、時にはそれはオーケストラにも匹敵する、とても10本の指だけで紡ぎ出しているとは思えないほどの多くの声部の饗宴にすら聞こえます。この作品のすぐ後に作られることになる巨大なオーケストラ曲「トゥーランガリラ交響曲」を彷彿とさせられるようなマッシヴなパッセージを至る所で感じたのは、まさに彼女の狙いに見事に嵌ってしまった結果なのでしょう。
2枚組CDの1枚目の終わり、11曲目「聖母の最初の聖体拝領」の後で、拍手の音が聞こえてきたのには驚いてしまいました。これだけ完璧な演奏を成し遂げていたのが、生のコンサートの現場だったとは。この素晴らしいホールの音響まで見事に制御のうちに入れていた彼女は、なんという感覚の持ち主なのでしょうか。
ですから、2枚目のCDになったら、殆どその場に居合わせた聴衆の気持ちになりきって、この希有な体験を味わうことが出来ました。甘美な和声が心を打つ15曲目「幼子イエズスの口づけ」では、そのハーモニーの移ろいは、ひたすら平らな音の力として伝わってきます。鍵盤楽器特有の減衰感をまるで感じさせないその柔らかなタッチ、そこからは、音が淡いパステルカラーとなって、確かにメシアンの描いた暖かい「まなざし」が伝わってきます。
こちらでは、そんな体験まで味わうことが出来るんですね。
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by jurassic_oyaji | 2008-07-23 20:12 | ピアノ | Comments(0)
CHOPIN/Piano Concertos 1&2
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Dang Thai Son(Fp)
Frans Brüggen/
Orchestra of the 18th Century
NIFC/NIFCCD 004



レーベル名のNIFCというのは、ポーランド語でNarodowy Instytut Fryderyka Chopinaつまり「フレデリック・ショパン協会」という団体の略号です。なんでも、ここでは「リアル・ショパン」というコンセプトで、歴史的な楽器によるショパンの作品の演奏を体系的に録音して発表するという事業も推し進めているようで、このCDもその成果の一端となっています。レタリングだけのシンプルなジャケットも共通していて、なかなか壮観です。もちろんこの「協会」は、ショパンの故郷ポーランドのものですから、あちこちに見慣れないポーランド語が踊っているのも、ちょっとしたカルチャーショックになるのかもしれません。なにしろ、ショパンのファースト・ネームがあのようなスペルだったとは、今まで知りませんでしたから(「協会」の名前は、おそらく格変化でしょうか、語尾が変わっていますから、純粋な名前の表記は「Fryderyk Chopin」になります)。
カルチャーショックといえば、ショパンが「歴史的な楽器」、つまり「ピリオド楽器」での演奏の対象となっている、というのも、盲点をつかれた感じです。確かにショパンは19世紀前半の人ですから、例えばマーラーなどよりはずっと前の時代、マーラーで「ピリオド・アプローチ」が行われているのであれば、当然その対象になってもおかしくはないことなのですね。
そこで、まずソリストの楽器には1849年に作られたというエラールのピリオド・ピアノが用いられました。ネジや消しゴムは付いてはいませんが(それは「プリペアド・ピアノ」)。そして、オーケストラは、ブリュッヘンの指揮による18世紀オーケストラという、「ピリオド」界の雄の登場です。1番、2番、それぞれ2005年と2006年に開催された「ショパンと当時のヨーロッパ音楽祭」でのコンサートでのライブ録音となっています。
想像していた通り、イントロのオーケストラの響きも、そしてピアノの音も、今まで聞いてきた「ショパン」の響きとは全く異なるものでした。特に、フォルテピアノのもっさりとした音色と、ちょっとたどたどしいタッチは、あの輝かしいショパン・ブランドからは大きな隔たりのあるもの、これはかなりショッキングな体験です。音域は88健と現代のピアノと変わりませんが、ピッチは半音低く、弦の張力が弱い分、シャープさが無くなっているのでしょう。もちろん、アクションの構造も全然異なっているのでしょうし。しかし、次第に聴き進むうちに、これは他の楽器に関しての「モダン」と「ピリオド」の違いが、この楽器にも端的に表れていることが分かってきます。多くの聴衆を相手にするために、ひたすら遠くまで聞こえる音を追求してきた「モダン」楽器、その課程で失われてしまったものが、やはりピアノの場合もあったのではないか、というごく当たり前の感慨が湧いてきます。ショパンが曲を作ったのがこのような楽器だとすれば、今のスタインウェイから出てくる音は、まるで作曲者の意図が反映されていないものになってしまっているのではないか、と。
もっとも、ピアニストにしてもオーケストラにしても、そのような違和感はおそらくかなり強烈なものであったのは想像に難くありません。特に2005年の第1番の演奏では、ことさらその「違い」に対する戸惑いが、演奏に現れているような気がします。例えば、第2楽章の弦楽器などは、あくまでノンビブラートで押し切ろうとしている結果、表現そのものがなにか硬直したものになっているのではないでしょうか。
2006年の演奏になると、ある意味開き直りのようなものが感じられ、演奏そのものに余裕が出てきます。頑なにノンビブラートにこだわらずとも、必要ならばかければ良いではないか、という思いが、ショパンに関しては湧き起こってきたのかもしれません。第3楽章では、まるで「幻想交響曲」のようなコル・レーニョを聴かせているのは、そんな余裕ゆえのユーモアの発露なのでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2008-06-09 19:24 | ピアノ | Comments(0)
BEETHOVEN/Piano Concertos Complete
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Friedrich Gulda, 杉谷昭子(Pf)
Holst Stein, Gerard Oskamp/
Wiener Philharmoniker, Berliner Symphoniker
BRILLIANT/93653



ベートーヴェンのピアノ協奏曲「完全」全集。3枚組で2000円以下という、このレーベルならではのリーズナブルな価格設定です。「完全」というのは、ヴァイオリン協奏曲を作曲家自身がピアノ協奏曲に編曲したものが含まれた6曲の「全集」になっているからです。
ジャケットのクレジットを見ると、ライセンス元は「DECCA」となっています。自社制作も行っていますが、基本的にはこのレーベルは世界中の「死んだ」、あるいは「死にかけている」レーベルの音源を集めて発売するというスタンスをとっていますから、そんなところにかつての名門「DECCA」が登場しているというのは、一抹の寂しさを感じるものがあります。確かに、このレーベルはある意味「死んで」います。
1970年、ウィーンのゾフィエンザールで録音」という表記が、ジャケットに記されたデータのすべてなのですが、普通の5つの協奏曲が、そのDECCA原盤、何度となく繰り返しリリースされているグルダによる2度目の録音です。オーケストラはホルスト・シュタイン指揮のウィーン・フィル、エンジニアはゴードン・パリー、ジェームズ・ロックというそうそうたるメンバーです。正確には1970年6月と、1971年1月の2度のセッションで録音が完了したものでした。この頃は、ウィーンでのチーフ・プロデューサーだったジョン・カルショーはすでにDECCAを離れていましたから、プロデューサーはデイヴィッド・ハーヴェイです。
ここでのグルダは、かつて「ウィーンの三羽がらす」という、言ってみれば「ウィーン3大ピアニスト」のような大層な持ち上げ方をされていた評判を裏切らない、ごくまっとうな演奏に終始しています。ただ、今の時点で注意深く聴いてみると、そんなオーソドックスさの中にもグルダらしさを感じ取ることは可能でしょう。弾いている楽器はおそらくベーゼンドルファーでしょうが、そのちょっと甲高い音色が、まるでフォルテピアノのような感触を与えている部分が見られたりもするのです。また、オケと一緒の時にはしおらしく演奏していたものが、カデンツァになるとガラリとテイストが変わって、それまでの重々しさを捨てた軽やかな味が出てくるのも面白いところです。
もう1曲、ヴァイオリン協奏曲に由来する「ニ長調」のピアノ協奏曲については、ライセンスに関する情報は全く記載されていません(ナンセンス!)。演奏しているのが杉谷昭子(すぎたにしょうこ)さんという日本人、1947年生まれといいますから、もはやベテランのピアニストです。オーケストラがベルリン交響楽団、指揮はジェラルド・オスカンプという人です。この録音は1994年の4月に、ベルリンのシーメンス・ヴィラで行われたものです。元のレーベルはVERDI RECORDSという、まさに「死んだ」ところですが、1995年にはビクターエンタテインメントから国内盤もリリースされていました。これに先立つ1993年のセッションでは他の5曲も録音されており、それこそ「完全版」の全集として発売されています。ピアニスト、指揮者、そしてオーケストラが全て同じメンバーによる「6曲」の全集というのは、もしかしたら彼女のものが世界で初めてだったのかも。ですから、BRILLIANTも、少し前でしたらこちらの全集をそのまま使っていたところなのでしょうが、こんな贅沢なDECCAの音源が簡単に使えるというご時世になってしまっていたために、より知名度の高いアーティストでの全集が実現することになりました。
もちろん、この「ニ長調」を聴く限り、他の協奏曲の水準は到底DECCA盤には及ばないことがうかがえますから、それはありがたいことでした。ちなみに、この「ベルリン交響楽団」というのはザンデルリンクやインバルとの録音がたくさん残っている同じ名前の旧東ドイツの団体ではなく、1966年に旧西ベルリンに創設されたオーケストラです。
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by jurassic_oyaji | 2008-06-01 20:08 | ピアノ | Comments(0)
MOZART/Sonaten & Variationen
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Peter Waldner(Clavichord)
EXTRAPLATTE/EX-663-2



「クラヴィコード」という楽器のことは、ここで何度となく取り上げていますから、どんなものであるかというおおよそのイメージはお持ちになっていることでしょう。ほかの鍵盤楽器と異なるのは、弦を叩いたり(ピアノやフォルテピアノ)はじいたり(チェンバロ)するのではなく、金属片を弦に「押し当てる」ことによって音を出すという点です。従って、ピアノのような複雑なアクションを用いなくとも、鍵盤を叩く力によって音の大小を付けることが出来ますし、弦に当たった金属片はいわば「駒」に相当するわけですから、鍵盤によってそれを動かせばピッチを変えてビブラートのような効果を出すことも出来るという特徴を持っています。
ただ、この楽器は極めて小さな音しか出せませんから、現代の大きなホールでのコンサートに用いられることはまずありません。それこそちょっとしたお屋敷のサロンなどで、ごく近くでその演奏を聴く、といった特別な機会でもないことには、なかなか実際の生の音を聴くことは難しいでしょう。もちろん、私もまだ生クラヴィコードを聴いた経験はありません。
そんな珍しい楽器なので、どうしても接するのは録音を通して、ということになってしまいます。今まで数種類、この楽器を録音したCDを聴いた時には、その繊細さというものが強く伝わってきていたような気がします。なにしろ弦から発する「楽器としての音」以外にも、アクションなどがかなり派手な音をたてるもののようですから、そんなノイズを聴かせまいとすると、いきおい録音レベルを下げるとか、かなりオフマイクにせざるを得ないのでしょう。その結果、それは遠くの方でかすかに鳴っているような風にしか聞こえては来なかったのです。
ところが、このCDはどうでしょう。そんな楽器の音を、必要なものも必要でないものもまとめて味わってもらおう、という姿勢なのでしょうか、思い切り接近した位置のマイクでとらえられたその音は、現実にはまずあり得ないほどのものすごいものになっていました。言ってみれば、細かいところまでがまるで顕微鏡で拡大されたような音でしょうか。
そういう録音の元で演奏されているのが、モーツァルトのソナタや変奏曲です。しかも、クラヴィコーディスト(?)のヴァルトナーは、かなり豊かなパッションを演奏に込めたがる人のようですから、この楽器の特性をめいっぱい活用して、とてもダイナミックな表現(つまり、極端なクレッシェンドとディミヌエンド)を聴かせてくれています。イ短調のソナタ(K.310)でそれをやってくれるのですから、それはものすごいものがありますよ。まさに超異端の音楽、最初のフレーズの抑揚は、ピアノで演奏してもこれほどのものは表現できないのでは、と思えるほどの、まさに鬼気迫るもの、そのパターンでひたすら押しまくってきますから、正直聴かされる方としてはかなりの疲労を伴うものになってきます。
ただ、そんな疲労感は、ある瞬間を過ぎると快感のようなものに変わることもあります。そして、もしかしたらこんな「優雅」とか「典雅」といった言葉からは遙かに遠くにある演奏と、そして「音響」は、モーツァルト自身が聴いたとしたら、案外気に入ってしまうのではないか、という気持ちにもさせられてしまいます。2楽章あたりで味わえる、まるでマンドリンかリュートのような不思議な響きも魅力を誘うのでは。
「きらきら星変奏曲」はもっとラジカルです。特に、低音の細かい動きでの洗練とはほど遠いたどたどしさと、その時の音色の不均一さは、ほとんどエフェクターによるディストーションのようには聞こえないでしょうか。それは時代を超えて、例えばキース・エマーソンあたりにも通じようかという、躍動に満ちた音楽です。パワフルなロックのスピリットまでモーツァルトから引きだした、これはものすごい演奏(+録音)です。
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by jurassic_oyaji | 2008-05-24 19:37 | ピアノ | Comments(0)
In a State of Jazz
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Marc-André Hamelin(Pf)
HYPERION/CDA67656



「ジャズ風に」というアルバムタイトルは、この中に収録されているアレクシス・ワイセンベルクの「ジャズ風ソナタSonate en état de jazz(Sonata in a state of jazz)」から取られたものです。あの一世を風靡したピアニスト、ワイセンベルクは、作曲もしていたのですね。婦女暴行だけではなく(それは「ワイセツベルク」)。
そんなタイトルにもかかわらず、ライナーの中で、アムラン自身が「このアルバムには、ジャズの曲は一切入っていない」と語っているのが興味あるところでしょう。彼によれば、「ジャズ」と「クラシック」とは全く別の音楽だというのです。その最大の違いは、アドリブ・ソロの有無、即興的なソロこそがジャズの命ですが、ここではそれらは全て楽譜として書かれているために、もはやジャズではあり得ない、ということなのでしょう。逆に言えば「クラシック音楽とは、楽譜に書かれたものである」ということになるわけです。
確かに、そのワイセンベルクの作品などは、いったいどこが「ジャズ」なのか、という印象を与えられるものです。そもそも、4つの楽章がそれぞれ4つの都市にちなんだ音楽によっているというものの、それが「タンゴ(ブエノス・アイレス)」、「チャールストン(ニューヨーク)」、「ブルース(ニューオーリンズ)」、「サンバ(リオ・デ・ジャネイロ)」というのですから、そもそも「ブルース」以外は「ジャズ」とはあまり関係なさそうにも思えてきます(いや、ある時代には「クラシック」以外の音楽を「ジャズ」といっていたこともありましたが)。さらに、それぞれの曲も、いったいどこがタンゴでどこがサンバなのか、という、かなり抽象化された技法の集積の産物となっていますから、「ジャズ風」というタイトルもそのままうけとるべきでないのかもしれません。
もう一つの彼の作品「シャルル・トレネによって歌われたシャンソンによる6つの編曲Six arrangements of songs sung by Charles Trenet」にしても、素材がクラシック以外の曲というだけのこと、そのテーマを華麗な超絶技巧を駆使して高度のパラフレーズに仕上げたという点ではクラシック以外の何者でもありません。かといって、このレーベルの輸入代理店が「ブン」のようなただのシャンソンを「歌曲」などと訳しているのは、依然としてこの国のクラシック界を覆っている権威主義の名残なのでしょうか。
ワイセンベルクと同じように、カプースチンの場合も決して「ジャズ」ではあり得ないものをジャズだと言い張って(?)いる、まさに「ジャズ風」と呼ばれるにふさわしい、頭でっかちな音楽に聞こえます。ジャズの様式を単に模倣したに過ぎないその作風は、ジャズのサイドからはもちろんのこと、クラシックのサイドからも胡散臭い目で見られてしまうことでしょう。
しかし、紛れもないジャズマンとしても活躍していたフリードリッヒ・グルダの場合は、たとえ細かいところまで記譜されていたとしても、そこにはしっかりジャズの精神が宿っていることを感じることが出来ます。ジャズの悦びを、何とかしてクラシックの人たちにも楽譜を通して知ってもらいたいという熱意のようなものすら、感じることは出来ないでしょうか。
そんな、多様な「ジャズもどき」の作品たちを、いとも軽やかにアムランが演奏している、というところにこそ、注目すべきなのでしょう。彼の手にかかると、ジャズであろうがなかろうがそんなことは全く問題にはならなくなってきます。そこに広がっているのは、信じられないほどのメカニックに裏付けされた完璧な音のストラクチャー、その圧倒的な音の洪水に酔いしれてしまっては、ジャズの魂がどうのこうのと言うこと自体が些細なことに思われてしまいます。そう、これはアムランが作り上げたまさにジャンルを超えた音楽なのです。
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by jurassic_oyaji | 2008-05-08 19:39 | ピアノ | Comments(0)
RACHMANINOFF/Piano Concerto "No.5"
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Wolfram Schmitt-Leonardy(Pf)
Theodore Kuchar/
Janácek Philharmonic Orchestra
BRILLIANT/8900



かつては他のレーベルのライセンス品などで破格の値段のボックス物などを大量投入、CD界に価格破壊の嵐を巻き起こしたこのレーベルは、もはや「超廉価盤専門」などとは言ってはいられなくなってしまいました。いつの間にか自社での制作が多くなって、なかなかユニークな企画を発表するようになり、ちょっと侮れないものに変わってしまっていたのです。それでも、全集のような形でのセットものではまだ割安感がありましたが、今回のアイテムはなんと1枚でノーマル・プライス、こうなると、もはや普通のマイナー・レーベルと何ら変わらないようになっていますね。もう一つの「廉価盤」の雄NAXOSも、ちょっと垢抜けなかったジャケットが何となくスマートになってきたと思ったら、値段も少しスマートになり、一流品の仲間入りをしていましたし。そのうちには高音質のマスタリングを行うような噂も飛び交っていますから、こちらも油断はできません。
しかし、この企画のユニークさには、価格のことを言う必要もないほどの衝撃が与えられるのではないでしょうか。なにしろ、ラフマニノフのピアノ協奏曲「第5番」の世界初録音ですからね。もちろん、彼が作ったピアノ協奏曲は「4番」までしかありません。ですから、これは新しく発見された誰も知らない楽譜を、初めて演奏したものなのでしょうか。だとしたら、かなりセンセーショナルなことですね。
あいにく、この曲はそのようなまっとうなものではありません。正式なタイトルは「交響曲第2番に基づくピアノ協奏曲」、つまり、あの激情のるつぼと化した甘美この上ない交響曲を、ピアノ協奏曲に作り替えたものだったのです。そんなアイディアを思いついたのはピーター・ヴァン・ヴィンケルという、このレーベルでもその演奏を披露しているオランダのピアニストでした。彼は、ラフマニノフの交響曲第2番を聴いていて、「なにかが足らない」と思ったのだそうです。そして、ロシア生まれのピアニスト兼作曲家、現在はベルギーで主に映画やテレビの仕事を行っているアレキサンダー・ワレンベルクという人にその「再構築」を依頼します。
ワレンベルクは、まず4楽章あった「交響曲」を、3楽章の「協奏曲」にするために、交響曲の第2楽章と第3楽章をドッキングさせて、それを第2楽章としました。最初に出てくるのは元の第3楽章アダージョの有名な甘いテーマです。それがひとしきり続いたあとに、元の第2楽章のスケルツォが登場します。そしてカデンツァを挟んで、またアダージョに戻る、という構成です。そんな風に、元の形を適宜切りつめたり、もちろんなにもなかったピアノパートを新しく作ったり(カデンツァもあります)という作業を行った結果、この「協奏曲」は元の「交響曲」の40.6%の長さになったということです。
こうして、2000年にヴァン・ヴィンケルが思いついたアイディアは、2007年に実際にスコアとして完成、その年の6月にチェコで録音されたものが、このCDということになります。
そこから聞こえてきた「協奏曲」は、確かにラフマニノフのフレーズで満ちあふれているものでした(当たり前ですが)。しかし、良く出来てはいますが、ここでヴァン・ヴィンケルとは別の意味で「なにかが足らない」と思ってしまうのはなぜでしょう。例えば、元の第3楽章でオーケストラ全体からわき出てくるはずの熱い思いが、ピアノが加わったこのバージョンからは殆ど感じ取ることができないのです。さらに、フィナーレが持っていたはずのとてつもない躍動感が、なぜかすっかり消え失せています。「足らない」と感じたのは、おそらくラフマニノフ自身が曲を作るときにその中に込めていたであろうパッションだったのではないでしょうか。このワレンベルクのアレンジ、これがコンサートで演奏されたとき、果たして割れんばかりの拍手を受けることはあるのでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2008-03-17 20:34 | ピアノ | Comments(1)
BACH/Goldberg Variations
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西山まりえ(Cem)
ANTHONELLO MODE/AMOE-10003



まるで、新手のアイドル・ピアニストを大々的に宣伝しているような安っぽいジャケットですね。このアーティストのことを知らなければ、心あるリスナーは間違いなくスルーしてしまうことでしょう。今月号の「レコード芸術」でも、大々的に紹介されている西山さん。彼女のバッハに対するアプローチにはかなり興味が湧いていたところですから、ちょっと前にリリースされた「ゴルトベルク」を聴いてみました。
常々、バッハの演奏に関してはさまざまなスタイルのものを聴いていましたからある程度のことでは驚かないようにはなっていたのですが、この演奏には本当にびっくりしてしまいました。西洋音楽の基本であるはずの「きちんと揃える」とか「テンポはしっかり守る」などという約束事は、ことごとく破られているのですから。最初の「アリア」にしてからが、右手と左手は全く「揃う」ことはありません。まるで楽器を始めたばかりの初心者が手探り状態でやっと両手で弾いている、といった感じなのですよ。しかし、そこからはそんな拙さなどは全く感じることはできず、右手と左下が繰り広げるたくさんの声部が、それぞれ自由に自分の「歌」を歌っているように聞こえてきたのです。
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そういえば、この曲の楽譜って、見たことがありますか?実はライナーにも初期の印刷譜が載っていますし(↑)、現代の印刷譜でも十分分かることなのですが、バッハはとにかくたくさんの声部をその中に書き込んでいます。「アリア」の出だしの左手は、「ソシレ」という分散和音なのですが、それは「ソ-シ-レ」というメロディではなく、「ソ」、「シ」、「レ」という3つの音がそれぞれ別の声部として登場するようになっているのです。そんな感じが、彼女のこの演奏だとすごくよく分かってきます。それぞれのキャラが、全く違うのですよ。
テンポだって、きっちり拍を均等に、などということは全く考えていないように聞こえます。十六分音符は四分音符の中に4つ入るといったような数学的な扱いではなく、楽譜の形を見て早く感じるところは早く弾く、みたいなところがたびたび出てくるのです。ある意味、イマジネーションというか直感のようなものを大切にして、「楽譜」ではなく「音」として聴いてもらいたいという、クラシックではなくポップスのミュージシャンのようなセンスを感じてしまうのです。そういえば、彼女が活躍していたフィールドはバッハよりずっと前の、中世あたりまでさかのぼった時期の音楽だったはず、その頃はまだ楽譜に縛られない生き生きとした音楽は健在だったのでした。そんなセンスが全開なのが、第10変奏の「フゲッタ」です。フーガ主題のそれぞれのパーツが、本当に生きているようにさまざまな主張を行っているのが、見事に伝わってきます。
ここで彼女が弾いているチェンバロは、18世紀のフランスの楽器のコピーのようですが、その音にもちょっとびっくりさせられてしまいました。そんなヒストリカル楽器のイメージからははるかに遠いところにある、極めて強靱な音が聞こえてきたからです。しかし、聴き進うちに、そこにはとてつもない繊細さが宿っていることに気づかされます。しかも、その表情の多彩なこと。フレーズの最後が高い音で終わるときにも、その音は無神経に目立つことはなく、音色までも柔らかくなって見事にフレーズが収まっているように聞こえてくるのです。これが楽器のせいなのか、彼女の奏法によるものなのかは分かりませんが(おそらく、双方の要因がからんでいるのでしょう)これはちょっとすごいことですよ。
こんな素晴らしいアルバムなのに、このジャケットのせいで目もくれないでしまう本当のクラシック・ファンがいるのではないかと、心配になってしまいます。まっとうな演奏家にさそうあきらは完璧に似合いません。裏ジャケの時間表示にもミスがありますし。
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by jurassic_oyaji | 2008-02-26 23:21 | ピアノ | Comments(0)
RIMSKY-KORSALOV/Piano Duos/Scheherazade etc.
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Artur Pizarro(Pf)
Vita Panomariovaite(Pf)
LINN/CKD 293(hybrid SACD)



オーケストレーションの極致ともいうべき管弦楽曲、「シェエラザード」を作ったリムスキー=コルサコフが、それを自らピアノ2台のために編曲したバージョンが有るということにとても興味がわき、このSACDを買ってみました。あの色彩的なオーケストラの世界をピアノに移し替えるという大変な作業を、この職人的な編曲家はどのように処理しているのか、期待してみたっていいでしょう?
しかし、ポルトガルのピアニスト、アルトゥール・ピツァーロと、リトアニア生まれの彼の弟子、ヴィタ・パノマリオヴァイテによって奏でられた「シェエラザード」は、オーケストラ版の華やかさを知っている者にとっては、かなり拍子抜けのするものでした。この2人の演奏は、音の良さでは定評のあるこのレーベルのSACDによって、とてもクリアに響きます。それを意識したのかどうかは分かりませんが、彼らはとことん響きの美しさを追求しているかのように、ひとつひとつのアコードを丁寧この上なく演奏してくれます。2人のタイミングは完璧なまでに揃えられ、人間業とは思えないほどの精度を見せつけてくれているのです。
そんな澄みきった響きに慣れてきた頃には、彼らはこの編曲から、決してオーケストラの華やかさを引き出そうとはしていないことに気づくはずです。そもそも、リムスキー=コルサコフ自身は、オーケストレーションのスキルほどにはピアノ演奏には通じてはいなかったそうです。したがって、彼の編曲自体が、最初からあった音をそのままピアノに置き換えただけという素っ気ないもので、特別にピアノで演奏するための効果をねらった細工のようなものは何一つ加えていないという事情もあります。ハープの伴奏に乗って、シェエラザードのテーマがソロ・ヴァイオリンで披露されるという印象的な導入でのそのヴァイオリンの滑らかな音型はピアノのパルスだけで演奏されるとなんともゴツゴツとしたものに変わってしまいます。弦楽器によって演奏される蕩々とたゆとう波のような音型の上を、木管楽器が代わる代わる美しい歌を奏でるという場面でも、それぞれのパートを描き分けるだけの楽譜上の工夫がないことには、ピアニストにとっては手の施しようがなかったのかもしれません。
そんなわけで、彼らがひたすら淡々と音を連ねていった結果、元の曲とは似てもにつかない、殆どヒーリング・ピースのような「シェエラザード」が姿をあらわすことになりました。おそらくこれは、作曲家自身も気づくことの無かった、この曲の裸の姿だったに違いありません。逆にショッキングなほどに見えてくるのが、オーケストレーションの力の偉大さではないでしょうか。この間の抜けた音楽が、あれ程の輝かしいものに変貌するということ、そしてそれを成し遂げたリムスキー=コルサコフの偉大さこそを、ここでは思い知るべきなのでしょう。
同じ手法によったものでも、「スペイン奇想曲」の場合はとても素直にオーケストラと同じ感興が、2台ピアノからだけでも味わうことが出来ました。この曲の場合、みなぎるリズム感や、沸き立つようなグルーヴは、スケッチの段階からしっかり内包されていたことの証です。こちらの方は、余計な手を加えないほうが、よっぽど軽やかに聞こえるほどですし。
このアルバムにはもう1曲、リムスキー=コルサコフの奥さん、ナデージダ・ニコラエフナ・リムスカヤ=コルサコワ(ロシア語の場合、女性の名前は名字まで語尾が変化するというのが面白いですね)が編曲した「サトコ」が収録されています。ピアニストとしてはご主人より数段上回る腕を持っていた彼女の編曲は、元の曲の姿が殆ど分からないほど、ピアノの文法に満ちたものでした。もし彼女が「シェエラザード」を編曲していたならば、おそらくここで演奏されていたものとは全く別の姿を持つ音楽に仕上がっていたことでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2007-11-28 20:28 | ピアノ | Comments(0)
Solo
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高橋悠治(Pf)
AVEX/AVCL-25154



ひところ、楳図かずおさんがテレビのワイドショーなどによく登場していましたね。びっくりしたのは、テロップにカッコ、70才、カッコ閉じ、と出ていたことでした。これは2つの意味での驚き、「まことちゃん」で一世を風靡したこの漫画家も、もう70才になっていたのか、という驚きと、久しぶりに見たその外見がとても70才とは思えないほどの若々しいものだったという驚きです。その服装も含めて、これは、まるで少年ではありませんか。
1938年生まれといいますから、高橋悠治ももはや殆ど70才と言っていいほどの歳になりました。しかし、こちらは外見的にはもはやすっかりじいさんです。何よりも、ジャケットのこの柳生弦一郎のカリカチュアは、まるで落語に出てくる長屋の大家さんといった感じ、残酷なまでに「老い」を強調したものとなっています。アーティストのイラストとして、これほどそぐわないものも希でしょう。サインペンのベタがいっそうのチープ感をそそります。
しかし、悠治の音楽はそんなじいさん臭さなど全く感じさせないような、「若い頃」となんら変わらないものでした。一見小品集のようなおもむきを見せるこのアルバムは、悠治ならではの刺激に満ちた、油断の出来ないものだったのです。
最初のトラック、モーツァルトのロンドニ長調が始まった瞬間に、聴き手はそのことに気づかされるはずです。巷にあふれるフワフワしたモーツァルトとの、なんという違いようでしょう。最も際だっているのが、装飾音の扱い、それらは元の音との関連性を否定されて、それ自体で存在を主張しているかのように、刺激的に響きます。そこからは、滑らかで落ち着きのある流れなどは生まれようもありません。悠治特有の独特の「間」とも相まって、あちこちにささくれだったところの残る原木のような、不思議な肌合いが姿を現すのです。最後に登場することになるイ短調のロンドに至っては、おどろおどろしいほどのテイストさえ備えています。
シューベルトのピアノソナタ第20番では、第2楽章だけを演奏するというアイディアによって、全体のソナタを聴いていたときには分からなかったようなこの曲のダイナミックな側面が認識されるようになります。確かに和声は紛れもないシューベルトのものであるにもかかわらず、悠治によって施された極限までのダイナミック・レンジによって、それは確実にロマン派の範疇を超えたスケールの作品になっていました。
ガルッピのソナタという、殆ど18世紀の陳腐さしか残らないような作品でも、悠治のレアリゼーションは容赦がありません。装飾的なフレーズを彼が弾くとき、それはとてもグロテスクな音列に変貌します。エレガントだと信じて疑わなかった音楽が、一皮むけばこんな醜いものだと知ったときの驚きは言葉には尽くせません。単調に繰り返される左手のほとんど白痴的な伴奏の、なんとシニカルに響きわたることでしょう。
ショパンのマズルカからは、見事に3拍子の「舞曲」としての側面が剥奪されていることが分かるはずです。ここでも、美しさの陰に潜む別の味わいを探り出す悠治の手腕は、冴えわたっていまずるか
自作の「子守唄」は、まるで他の「名曲」を読み解くときのパスワードのように感じられてなりません。それだからこそ、この曲の力の抜けたたたずまいは一層際だちます。
このアルバムで健在さを示した悠治の一貫した音楽に対する挑戦的な姿勢は、極彩色の邸宅を住宅地のど真ん中に建てようとする楳図かずおの子供じみた挑戦とは根本的に異なるものです。本当の若々しさは外見だけでは決して知ることは出来ません。
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by jurassic_oyaji | 2007-08-15 20:13 | ピアノ | Comments(3)