おやぢの部屋2
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カテゴリ:ピアノ( 59 )
BARTÓK/The Miraculous Mandarin
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Ákos Hernádi(Pf)
Károly Mocsári(Pf)
Franz Lang(Perc)
Jochen Schorer(Perc)
HÄNSSLER/CD 93.194



「のだめ」以来、モーツァルトの2台ピアノのためのソナタが大ブレイクしているそうですね。最初は「2小節で間違えて」いたものも、次第にまじめに練習するにしたがって、お互いの呼吸が感じられたり、次はどのように突っ込んでくるのかが予想できたりと、緊迫したアンサンブルが出来てくるようになるものです。初々しい二人のためにこんな曲を与えた二ノ宮先生のアイディアは、見事に花開きました。
2台のピアノに挑戦するのは、別にラブラブの若い音大生に限ったことではありません。殆ど50歳に手が届こうかというハンガリーのピアノ・デュオ、ヘルナーディとモチャーリというおじさん同士だって、のだめと千秋に負けないほどの息詰まるようなピアノ・デュオを展開してくれているのですから。「愛」なんかなくたって、素敵なアンサンブルは作れるのです。いや、実はあるのかも。
まずは、バルトーク自身がオーケストラから2台ピアノのために編曲した「マンダリン」です。これはなかなか珍しいアイテム、以前コチシュらの録音が出ていたのだそうですが、それはもちろん入手不能、しかも、今回は息子ピーター・バルトーク(レコーディング・エンジニアとして有名でしたね)が校訂した2000年版が使われているというのが目玉になっています。もちろん、その版が以前のものとどう違うのかなどということは分かりようもありませんが、オーケストラ版との違いぐらいなら分かります。元のオーケストラ版は、かなり派手な色彩に支配されたものでした。管楽器の超絶技巧が織りなす、まるでミラーボールのようなサウンドで始まったかと思うと、暗~いヴィオラのパートソロが現れるなど、その振幅の大きさも群を抜いています。それを2台のピアノだけで演奏したときには、そのようなオーケストレーションの要素から解放された音楽の骨組みが、実にくっきりと現れてくることになります。そんな、ある意味裸にされた「マンダリン」からは、ちょっとエロティックな肌触りなどは見事に消え去り、音階のおもしろさやリズムの妙といった、純粋に音の配置が生み出す機械的な愉悦が伝わってくることにはならないでしょうか。
おじさんたちも、ここではあまり情景的な思い入れは見せないで、ひたすらストイックに音の遊びを描こうとしているようには見えませんか?もしかしたら、それが大人のデュオとしての節度なのかもしれませんね。決して表に出すことはない「秘めた愛」でしょうか。
2人の打楽器奏者が加わった「ソナタ」では、そんなふたりの禁断の秘め事はもはや許されません。なんと言っても、この打楽器たちのドライブ感と言ったらすごいものがあります。それは、いくらシャイなおじさんたちでも、否応なしに引っ張られてしまうほどのパワーです。そして、そこに生まれるのが、4人の奏者によるポリフォニックな渦、これは見事です。あまりハマりこむとデブになりますが(それは「メタボリック」)。
しかし、改めて気づかされるのは、打楽器の豊かな色彩です。それは、この録音がとても優れていることの証なのでしょう。タムタムなどは低く包み込むような音から、ちょっと刺激的な音まで叩き方によってさまざまな音色が出るのがつぶさに分かりますし、トライアングルも微妙な響きの違いがはっきり聴き取れます。そして、シロフォンの生々しさ!これには、おじさんがたじたじになるのも無理はありませんね。3楽章などは、ほとんど打楽器にリードされっぱなしで可哀想なぐらい。
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by jurassic_oyaji | 2007-07-10 23:06 | ピアノ | Comments(0)
Two Mozart Masterpieces in Contemporary Transcription



Malcolm Bilson, Zvi Meniker(Fp)
Abigail Graham(Ob), Mónika Tóth(Vn)
Laszló Móré(Va), Csilla Vályi(Vc)
HUNGAROTON/HCD 32414



Contemporary」というのは「現代の」ではなく「同時代の」という意味です。ですから、これはモーツァルトの作品をその時代、18世紀後半の人が編曲したもの、ということになります。ここでそれらの編曲の世界初録音を行ったフォルテピアノの重鎮ビルソンとハンガリーで活躍中のメンバーによるアンサンブル、もちろんオリジナル楽器が用いられています。
1曲目は、「グラン・パルティータ」という名前で知られている13の管楽器のためのセレナーデを、1767年生まれ、ハンブルクのカントールを務めていたクリストフ・フリードリッヒ・ゴットリープ・シュヴェンケという人がフォルテピアノ、オーボエ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロという編成のクインテットに直したものです(ちなみに、彼はこの職を1788年に前任者のカール・フィリップ・エマニュエル・バッハから引き継ぎました)。オリジナルはかなり大規模な編成、しかも主旋律のパートを受け持つ楽器がオーボエ、クラリネット、バセットホルンと、多彩な音色を味わうことが出来るものですが、この編曲では潔くソロをオーボエ1本に任せるというプランをとっているようです。そこにヴァイオリンがからみ、フォルテピアノは和声と低音を担当するというのが基本的な役割でしょうか。従って、メロディーを一手に引き受けるオーボエにかかる負担は非常に大きなものになってきます。しかし、ここでそのパートを吹いているイギリス出身のグレイアムは、オリジナル楽器というハンディを考慮しても、ちょっと力不足の感は否めません。素朴な音色はフォルテピアノや弦楽器とよく溶け合ってはいるのですが、もう少し精密な音程が欲しかったところです。
なんと言っても原曲のイメージが強いものですから、例えば2曲目のメヌエットで印象的に聞こえてくるホルン五度のフレーズがさらりと平凡なハーモニーに置き換わってしまっているのはちょっと物足りないものがありますし、なによりもファゴット2本とコントラバスで迫ってくる低音が全く再現されないのには失望を隠せません。終曲の魅力であるオーボエと低音の掛け合いの妙味が、ここでは完璧に失われています。とは言っても、彼らが作り出す音楽そのものは、かなり自由度のあふれたフレッシュなものでした。アイディアあふれる装飾やアインガンクは、おそらく編曲の際に楽譜に加えられたものではないはずです。
ただ、原曲にはないものが加えられている部分もあります。二つ目のメヌエットである4曲目は、本来は二つのトリオを持っているのですが、ここではなんと三つ目のトリオを聴くことが出来るのです。ちょっと肌合いの違ったチャーミングなトリオですが、もちろんこれはここで初めて聴けるもの、どのような経過でここに挿入されたのかは、不明です。もしかしたら、将来管楽器のバージョンでこのトリオが演奏されることがあるかも知れませんね。
もう一曲、有名なト短調の弦楽五重奏曲を、1751年生まれの、歌手でもあったカール・ダヴィッド・シュテグマンという人がフォルテピアノ連弾のために編曲したものも、収録されています。深い愁いをたたえた第一楽章こそ、この楽器で演奏されるとちょっと違和感が伴いますが、他の楽章ではまるで最初からこの編成だったのかと思わせられるほどのハマりようだったのは、別な意味での驚きでした。
これを聴いて、以前、オペラをピアノだけで演奏したものには強烈な違和感があったことを思い出しました。編曲という、ある意味記号化の作業では、歌のようなものをピアノに置き換えた場合、その記号になじまない要素が抜け落ちてしまうことがあります。おそらく、「13管楽器」でもその要素はかなり多かったものが、「弦楽五重奏」では、ほぼ完璧に置き換えられることが出来た結果が、このアルバムでも現れていたのではないでしょうか。弦楽器、管楽器、声というように、「器楽」的な要素が稀薄になるに従って、次第に記号化が難しくなっていくというものなのかも知れません。その認識のないまま気迫だけで編曲を行うときに、何か重要なものが欠落してしまうことがあるのでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2006-11-08 19:43 | ピアノ | Comments(0)
Music for Two Pianos


Friedrich Gulda(Pf)
Joe Zawinul(Pf)
Jerry van Rooyen/
WDR Big Band Köln
CAPRICCIO/67 175



2000年に亡くなったピアニスト、フリードリッヒ・グルダが、ジャズピアニスト、ジョー・ザヴィヌルと共演した1988年のコンサートの放送音源が、CDとして発表されました。グルダと言えば、「クラシック」のピアニストとしては、かなり「はじけた」ところのある人として知られていましたね。若い頃に録音したモーツァルトのピアノソナタなどは、そのあまりの即興性の勝った演奏に眉をひそめる人は多かったものです。今となっては、例えばこの間のレヴィンのように、この曲に自由な装飾を施して演奏するのはほとんど「常識」となっていますが、その当時はそんな勝手気ままな演奏は決して認められることではなかったのですね。そんな、はるかに時代を先取りした演奏を実践していたグルダですから、「クラシック」の枠の中に収まりきるはずもありません。本格的に「ジャズ」へのアプローチを追求した彼は、独特のスタイルでそのジャンルでも名声を博することとなるのです。
ここで共演しているジョー・ザヴィヌルは、もちろん、あの革新的なジャズグループ(「フュージョン」と言うべきでしょうか)「ウェザー・リポート」のリーダーとして知らないものはないというジャズピアニストですが、実は彼はウィーン生まれのオーストリア人、本名は「ヨーゼフ・ザヴィヌル」と言うのだそうですね。初めて知りました。しかも、ウィーン音楽大学でピアノを学ぶという、キャリアのスタート時点では紛れもない「クラシック」ピアニストだったのですね。キリスト教を伝えたりはしませんでしたが(それは「ザヴィエル」)。
ですから、このアルバムの最初に収録されているのが、バリバリの「クラシック」である、ブラームスの「ハイドン・ヴァリエーション」であっても、なんの不思議もないわけです。言ってみれば、この曲目で2人のピアニストのルーツを確かめ合うという趣でしょうか。しかし、もちろん、素直にそんなことをするはずもありません。いきなり聞こえてきたのは、内部のピアノ線を直接手で弾くような奏法も含めたインプロヴィゼーションだったのですから。一体何が始まったのかと思っているうちに、あの有名なテーマが現れてくるのは、かなりスリリングなものでした。この2台のピアノは、音色もセンスも、全く異なったもののように聞こえます。おそらく右から聞こえるピアノがグルダで、左がザヴィヌルなのでしょう。ザヴィヌルの方が、どちらかといえばおとなしめ、きちんと楽譜通りに弾いているのに対し、グルダはかなり鋭い音で、テーマが始まってもちょっとした「おかず」を加えたりしているのが、面白いところです。ある意味、「クラシック」を極めた人の「恥じらい」のようなものを、そこには感じることが出来ます。
2曲目は、グルダの作品で「2台のピアノとバンドのための変奏曲」です。「変奏曲」というよりは、まるで「アレグロ-スケルツォ-アダージョ-アレグロ」みたいな4楽章からなるシンフォニーのような構成を取っているのが、ちょっとクラシックっぽいところですが、肌合いはあくまでジャズ、ビッグ・バンドをバックに2台ピアノのソロが展開されるというものです。最初にテーマを提示するザヴィヌルの温かい音色が素敵、ビートが入ってソロがグルダに変わると、全く異なる世界が広がります。そんな風に、きちんと書き込まれたバンドの間を縫って、全く肌合いの違う2人のソロを味わうのが、この曲の醍醐味でしょう。「第1楽章」から「第2楽章」に移る瞬間のテンポチェンジが聞きものです。「第3楽章」でのリリカルなソロを聞き比べるのも、たまらないもののはず。このバンドはドラムスにメル・ルイスが参加しているという、結構すごいもの、ノリの良いバックも存分に味わって頂きましょう。
盛大な拍手に応えての「アンコール」という形で演奏されたのが、「ウェザー・リポート」の1981年の同名のアルバムの冒頭を飾る「Volcano for Hire」です。カティア・ラヴェックとのコンサートでもやはりこの曲を披露したといいますから、これはザヴィヌルにとってはお約束、おいしいところをグルダに任せて、一歩下がって絡むあたりが、素敵です。
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by jurassic_oyaji | 2006-09-12 23:30 | ピアノ | Comments(0)
DEBUSSY/Images etc





高橋悠治(Pf)
DENON/COCQ-84171



高橋悠治の70年代のDENONへの録音が、まとめて13アイテム紙ジャケット仕様でリイシューされました。これらのレコードが、LPとして世に出た形を知っているものとしては、これはまるでまるで「グリコのおまけ」、何とも情けなさの伴う郷愁があふれてきたものです。というのも、これらのLPは、まだCDが影も形もなかった時代に、世界で初めての「デジタル録音」を体験させてくれるものとして、他のLPとはひと味違った重さを持ったものだったからです。
一般的には、デジタル録音というものが行われるようになったのは1980年以降だというのが、広く知られている認識ではないでしょうか。しかし、それよりもずっと早い時期に、このレーベルを掲げていた日本のレコード会社は、世界で初めて「デジタル録音」を実用化するのに成功していたのです。今では「デジタル」の代名詞とも思われている「PCM」という略号も、この会社が商標登録しているものでした。
その「PCM」のレコーダーを携えて、この会社は世界各地で自主録音を行います。当時原盤契約のあったSUPRAPHONERATOのアーティストを起用して、デジタルならではのクリアな音を見せつけたのです。当然、国内でも制作は行われました。その中で、特にこの会社が重用したのが、それまで「天才ピアニスト」と騒がれて、海外で華々しい活躍をしていた高橋悠治です。彼が活動の拠点を日本に移し、「トランソニック」という作曲家集団を組織するのと相前後して、夥しい数のレコーディングを行ったのです。バッハからジャズミュージシャンとの即興演奏、そして自らの作品とレパートリーは多岐にわたりました。
そんな悠治の一連の「PCM」録音、ノイズがなくてダイナミック・レンジが広いという「桁外れな」特性(当時は、そう信じられていました)に見事にマッチした彼の「解像度」の高い演奏によって、それまで聴いたことのなかったような新鮮な驚きを与えられたものです。中でも、このシリーズの最初の頃に発表されたこのドビュッシーのアルバムは、衝撃的なものでした。後期のものは次第に間接音なども取り込んだゆるい音場に変わっていくのですが、この頃はまさにピアノの弦の中に頭を突っ込んだような生々しい音の炸裂を聴かせてくれていました。それまで聴いてきたドビュッシーといえば、それこそ霧の中からほのぼのと漂うような「雰囲気」を重視したもの、そこに、この、一つ一つの音が独立した命を持って飛び跳ねているような不思議な演奏を完璧に捉えきった録音に出会ったのですから、その虜にならないはずがありません。特にお気に入りは、「映像第1集」の3曲目「運動」でした。最初の八分音符の導入に続いて三連符の細かい動きが始まった瞬間から、そのノリの良さには引き込まれてしまいます。ほんのちょっとしたアクセントから異様にショッキングな印象を与えられるのも、ちょっとした驚きでした。そして、これ以上の鋭さはないと思えるほどのタッチで入ってくる、「ソソファミレドドソ」という平行5度と平行8度を伴う下降テーマの堂々としたたたずまい。この、まるでキース・エマーソンのような、およそドビュッシーらしからぬ演奏は、それから長い間、繰り返し味わうことになるのです。
それらのLPは、ほとんどのものがCD化され、サティなどは海外でも高い評価を得ていました。しかし、例えば今回のシリーズの中の自作「ぼくは12歳」あたりは、一向にCD化される気配もなく、しびれを切らして他のレーベルから発売されてしまったこともあるというように、録音したメーカーが必ずしも全てのアイテムに愛着を持っていた訳ではなかったことが、明らかになっていました。
このドビュッシーは、1991年に1度CDとなってリリースされています。しかし、その時のジャケットはなにやら取りすましたデザイン、LPのジャケットと、その録音、演奏が一体となったものとしての呪縛に取り憑かれていたものにとっては、なんの魅力も感じられないものでした。それが、晴れてオリジナルジャケットで復刻されたではありませんか。確かにLPのジャケットが持っていた存在感はないものの、そこから聞こえてきた音は昔の印象がただの物珍しさに起因したものではなかったことを、確認させてくれるものでした。それだけに、ミニチュアでしかない外観とのミスマッチは募ります。もっと言えば、BRIDGE盤のように、レーベルまできちんと復刻しなければ、せっかく復刻しても意味がないのでは。
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by jurassic_oyaji | 2006-09-07 20:29 | ピアノ | Comments(0)
MOZART/Piano Sonatas Vol.1




Robert Levin(Fp)
DHM/82876 84236 2
(輸入盤)
BMG
ジャパン/BVCD-38168/69(国内盤)


ロバート・レヴィンというと、どうしても、モーツァルトの研究で有名なあの音楽学者としての姿がイメージとして迫ってきてしまいます。古くは、「偽作」とされている管楽器のための協奏交響曲(K297B)を、コンピュータを用いて復元したという仕事がちょっと話題になりましたし(現在では、この版を用いて演奏する人はまず見かけませんが)、有名な所では「レクイエム」の「レヴィン版」が、ほとんどジュスマイヤー版に次ぐスタンダードとして認知されています。最近では「ハ短調大ミサ」をフル・ミサの形に復元したものも発表されていますね。
もちろん、レヴィンといえばオリジナル楽器の世界で、鍵盤楽器奏者として大活躍している姿の方が、世に認められているもののはずです。決して医療や介護の世界で認められているものではありません(それは「シビン」)。バッハの協奏曲(HÄNSSLER)、ベートーヴェンの協奏曲(ARCHIV)、そしてモーツァルトの協奏曲(OISEAU LYRE)を、オリジナル楽器で演奏した録音は、それぞれ高い評価を得たものばかりです。
そんなレヴィンが、今回モーツァルトのピアノソナタの録音に着手しました。もちろん、使っている楽器はモーツァルト自身が愛用したというヨハン・アンドレアス・シュタインのフォルテピアノのコピーです。
このCDのパッケージには、通常のCDの他に、ボーナスDVDが入っています。それは、この録音が行われたマサチューセッツ州ウースターにある「メカニクス・ホール」という、非常に美しい残響を持つホールでの録音セッションの合間に、レヴィン自身が楽器のこと、作曲者のこと、そして作品のことを語ったという極めて興味深いものです。特に、彼が演奏しているフォルテピアノのことを語る時には、異常なほどの熱気が伴っているのが良く分かります。そこでは「現代」の楽器、D型スタインウェイを横に置いて、その構造、音の違いを分からせてくれているのです。それをもっと徹底させるために、アクションを丸ごと抜き出して、その二つを並べて見せてくれたりしています。そこまでやられては、この楽器がいかに現代のものとは異なっているかが、はっきり理解できることでしょう。そんなことを情熱たっぷりに語る彼の姿からは「学者」というよりは、モーツァルトが好きで好きでたまらない熱狂的なファン、といった面持ちが感じられてしまいます。彼の演奏、そして、楽譜の校訂や復元は、まさにモーツァルトに対する「愛」の証、そんな思いがヒシヒシと伝わってきます。
ここで演奏されているのは、K279,280,281(ちなみに、輸入盤には、「K6」の表記は全く見当たりません。それが世界の潮流なのでしょうか)という、いわゆる「1、2、3番」のソナタです。どの曲もとても生き生きとした息吹が感じられるものに仕上がっています。それは、型にはまった演奏ではなく、楽譜には現れていないようなちょっとした「タメ」とかルバートを施したことによるのはもちろんですが、何と言っても大きな要因はオリジナリティあふれる装飾です。どの曲にも前半と後半をそれぞれ繰り返して演奏するという指示がありますが(K281の最後だけが、ちょっと違います)、その繰り返しの時に、彼はとても表情豊かな装飾を施してくれているのです。両端の早い楽章ではそれほど目立ちませんが、それでもK280の後半、再現部が始まる前にアインガンクが入った時には、ちょっとゾクッとなってしまいましたよ。これだけで、音楽がとても立体的に感じられるようになるのですからね。その装飾が最大限に発揮されているのが、もちろん真ん中のゆっくりした楽章です。ほんと、1回目のメロディが2回目ではどんな風に変わって弾かれるのかという期待に胸をふくらませながら聴くというのは、とても幸福な体験でした。思いがけないところで、考えてもみなかったような素敵な装飾に出会えた時など、思わず「参りました」という気になってしまいます。中でも同じK280が聴きものです。フェルマータは、繰り返しの時にはアインガンクがはいるという「お約束」があるのですが、ここでの最後のフェルマータなどは、ほとんど「カデンツァ」といっても差し支えないほどの壮大なものでした。
DVDの中でも述べられていましたが、この楽器は現代のような均質な音色ではなく、音域によってそれぞれ特徴的な音がします。おそらくモーツァルト自身もそれを考慮に入れて曲を作ったはずだとレヴィンは語っています。そんなシュタイン・フォルテピアノの低音部は、「ビョン・ビョン」という、とっても「現代的」な共鳴がするのが特徴です。これを聴いて、かつてのR&Bシーンでの花形キーボード、あのスティービー・ワンダーが「迷信」の中で使っていた「クラヴィネット」(言ってみれば、エレキ・クラヴィコード)の音を連想してしまいました。この音だったら、踊れるかも。
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by jurassic_oyaji | 2006-08-21 20:07 | ピアノ | Comments(0)
MOZART/ZEMLINSKY/Die Zauberflöte




滑川真希(Pf)
Dennis Russell Davies(Pf)
AVI/553019



「モーツァルト祭」の御利益がこれほどのものとは誰が予測しえたことか、と思わせられるほど、絶対にCDなど出そうもなかったようなものが平気で市場を賑わせています。しかも、それが店頭に並べられるやいなや飛ぶように売れているというのですから、すごいものです。モーツァルト大好き、「魔笛」大好き、しかし、ちょっと普通のものではもの足りない、そんな「マニア」にとって、これは間違いなく食指を動かされるものに違いありません。
まだCDや、そのずっと前のフォーマットであるSPすら存在していなかった時代には、家庭でオペラやシンフォニーのような音楽を聴くことなど出来るはずもありません。そこで、手軽に大編成の曲を聴くことが出来るように、ピアノ用に編曲された楽譜が数多く出回ることになります。1901年にヨーゼフ・ワインベルガーによってウィーンに創設された新興の楽譜出版社「ウニヴェルザール(いわゆる『ユニバーサル』)」もその様な楽譜の出版には積極的でした。そこで目を付けたのが、若く才能豊かな作曲家アレグザンダー・ツェムリンスキーです。ヘビースモーカーでしたね(それは「煙好き」)。1902年の4月に完成したベートーヴェンの「フィデリオ」の4手ピアノ版を皮切りに、モーツァルト、ニコライ、ロルツィングのオペラ、さらにはハイドンやメンデルスゾーンのオラトリオまでもが、彼の手によってピアノソロやピアノ連弾作品として生まれ変わることになるのです。1902年の9月に出来上がったのがこの4手版「魔笛」、20世紀初頭のちょっと裕福なご家庭には、現代のホームシアターのような感覚でこのようなオペラの名旋律を楽しむという、かなり豪華な娯楽が広まっていたのでしょうね。
一つ混乱のないように確認しておけば、これらの編曲はあくまで原曲の音符を忠実に20本の指で演奏するために置き換えたものなのです。それは、例えばゴドフスキーやツェルニーが、過去の名曲を技巧的に再構築した「パラフレーズ」とは全く異なるコンセプト、目的はひたすら元の楽譜を2人の奏者だけで演奏することであり、決してそれ以上でもそれ以下でもないのです。
さらに、オペラという声楽作品でありながら、ツェムリンスキーの編曲からは、「テキスト」という要素が全く抜け落ちているのは、ピアノだけで演奏するという大命題からしたら当然のことです。従って、「2番」のパパゲーノのアリアのように単に歌詞だけが変わるという有節歌曲では、2コーラス以下は惜しげもなくカットされてしまいます。もちろんジンクシュピール特有のセリフなどもありませんから、2幕の最初などはなんの脈絡もなく「3つのアコード」が鳴り響くということになります。「20番」のように、各コーラスで微妙にオブリガートのグロッケンシュピールが形を変えるものでも、「有節歌曲」だというだけで縮小されるという事情を汲まなければなりません。この「鳥刺し」が自殺を誰かに止めてもらおうと吹くパンパイプも、1回だけでは助けは出てこないでしょうに。
国立音大を卒業後、ドイツを中心に活躍しているピアニスト滑川真希と、最近ではブルックナーのCDが注目されている指揮者デニス・ラッセル・デイヴィスが組んだデュオ・チームが、このピアノ版「魔笛」を「全曲」録音したのは、21世紀の初めのこと、DVDやデジタル放送によって、誰でも手軽に本物のオペラを目と耳で味わうことが出来るようになってしまった時代です。その様な中で、もはや本来の意味での役割は失われてしまっているこの編曲を、自分たちの楽しみではなく、耳の肥えた聴衆に向かって演奏するという意味は、当然のことながら問われることになります。
彼らが行ったことは、しかし、この編曲では全く器楽と区別が付かなくなっているボーカルの質感、あるいは肌触りといったものを示したり、テキストの持っている意味を何らかの形で伝えるといった、本来のオペラが持っているメッセージを明らかにする、というものではありませんでした。そこにあるのは、一切のキャラクターを捨てたただの音の羅列、おそらく、モーツァルトであればどのような形でも音そのものから美しさが引き出せるのだという、それこそ今の世の中を賑わせている甘い幻想の産物です。元のオペラを聴いていない限り、そこからはただの肌合いの良さしか感じることは出来ないはずです。
1世紀の時を経て、ツェムリンスキーの仕事にはなんの意味もなかったことを残酷に宣言したことこそが、この演奏の最大の功績だったのかも知れません。
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by jurassic_oyaji | 2006-07-10 20:00 | ピアノ | Comments(0)
MOZART/Piano Concertos 6,15&27


Pierre-Laurent Aimard(Pf)
Chamber Orchestra of Europe
WARNER/2564 62259-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11886(国内盤 1123日発売予定)


また、モーツァルトです。まだモーツァルト・イヤーになっていないうちからこんなに取り上げているなんて、いったい来年にはどんなことになっているのでしょう。それにしても、「生誕250年」などという半端な数字でこれだけ盛り上がるのですから、すごいものです。というより、こんなものはただの口実、とにかくみんなモーツァルトが好きなんです。本当はいつだって大騒ぎをしていたいのでしょうが、それもなんですからこういう「当たり年」にかこつけて、おおっぴらに聴きまくろう、演(や)りまくろう、ということなのでしょう。もちろん、私もモーツァルトは大好き、こういう時でないと出せないようなちょっと変わったアルバムを、大いに期待しているところです。
エマールがモーツァルトの協奏曲を録音してくれた、というのも、もしかしたらこの流れの恩恵なのかもしれません。殆ど「現代物」のスペシャリストとして、メシアンやリゲティの演奏で衝撃的な世界を見せてくれたエマールでしたが、ベートーヴェンの協奏曲に手を染めたあたりからレパートリーに広がりを見せてきたのは、ご存じの通りです。もっとも、そのベートーヴェンは、相方のアーノンクールの趣味が前面に出すぎていて、私にとってはちょっと、でしたが。
今回のモーツァルトでは、まず曲目の選択からして、一本筋の通ったものになっています。6番、15番、27番と、彼の若い時期から晩年までの長いスパンを網羅しているとともに、全ての曲が「変ロ長調」で書かれているという共通点があるのです。ライナーノーツを執筆しているリンゼイ・ケンプによると、この変ロ長調というキーは、モーツァルトにとって「もっとも分かりやすい種類の幸福と結びついている」ものなのだそうですから、そのあたりの情感の反映が時代と共にどう変わっているかを検証するのが、エマールの目論見だったのかもしれません。
6番と15番では、この「幸福感」が存分に味わえます。オーケストラはベートーヴェンの時と同じヨーロッパ室内管、しかし、指揮者はおかずにエマールが自ら「director」という立場でオーケストラの面倒を見ています。「conductor」というほどの強い意志は示さず、もっぱらオーケストラの自発性を生かそうというスタンスなのでしょうか。ここでは、ピアノとオーケストラの音楽性は見事な調和を見せていて、伸び伸びとしたモーツァルトの「明るさ」を心ゆくまで楽しむことが出来ます。6番の3楽章で大活躍するホルンの生き生きとしたことといったらどうでしょう。
ところが、27番になると、様相は一変します。1楽章のオーケストラのイントロがこんなに「暗く」聞こえてくる演奏は、今まで聴いたことがありません。もしかしたらエマールは、ここで「変ロ長調」と同じ調号である(平行調とも言う)「ト短調」を意識しているのでしょうか。しかし、ピアノもオーケストラも申し合わせたように妙な「溜め」を作っていて、音楽が停滞して流れていかないのにはちょっとついて行けません。2楽章も、その重々しい足取りは変わりません。そして、まるで羽根が生えて舞い上がるような軽やかさを持っていて欲しい3楽章のロンドでも、そんな期待が満たされることは決してありません。思わせぶりな暗さ、妙な引っかかり、そして不思議なアクセント、こんな音楽はまるで先ほどのアーノンクールの趣味そのものではありませんか。このオーケストラに染みついたこの「偉大な」指揮者の陰が、ここにもチラチラしているのではないか、そんな印象を強く受けるものでした。言ってみれば、とても相性が良いと思って「幸福」な気分で付き合っていたら、いきなり情夫が顔を出して、美人局だと分かったようなもの。こんな品のない喩えは、このサイトではいつもだぜ
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by jurassic_oyaji | 2005-10-26 20:12 | ピアノ | Comments(0)
GERSHWIN/The Work for Solo Piano





Frank Braley(Pf)
HARMONIA MUNDI/HMC 901883



ガーシュインの伝記映画「アメリカ交響楽」をご覧になったことがありますか?黒田さんの母校ではありません(それは「学習院」)。彼が亡くなってから8年後の1945年に作られたこの映画、原題は「Rhapsody in Blue」というだけあって、その、殆ど彼の代表作とされる曲の初演の模様が、一つのハイライトになっていましたね。何しろ、実際にこの曲をガーシュインに依頼し、自らのオーケストラを指揮して初演を行ったポール・ホワイトマンが「ヒムセルフ」で出演しているのですから、リアリティがあります。ただ、その場面では、かなり大人数の「シンフォニー・オーケストラ」がステージに乗っていましたが、実は初演の時の編成はピアノソロにジャズのビッグバンドだったのですから、これは決して真実の姿を伝えるものではありません。ホワイトマン本人が出演しているからといって、だまされてはいけません。
いくらジャズのバンドであれ、この初演の時のスコアすらガーシュイン自身が書いたものではなく、あのグローフェによるものだというのは、よく知られていることです。そもそも彼はショービズの世界の売れっ子作曲家、ピアノの譜面は書けますが、「オーケストレーション」というちまちました仕事は、そちらの専門の人に任してしまえばそれで済むような立場にあった人なのです。これは、現代のショービズ界でも同じこと、あのヒットメーカー、アンドリュー・ロイド・ウェッバーも、デヴィッド・カレンという有能なオーケストレーターを抱えていれば、自らはそのようなスキルがなくても、自在に華麗なサウンドを作り上げることは出来るのです。「レクイエム」などという、紛れもない「クラシック」の曲を持っていながらロイド・ウェッバーが決してクラシックの作曲家と呼ばれることはないのと同様に、ジョージ・ガーシュインも生涯「クラシック」の作曲家ではありませんでした。もちろん、それは、作曲家本人がそのように望んでいたこととは全く別の次元の話です。
俊英フランク・ブラレイがこのガーシュイン・アルバムで見せてくれたものは、まさにそのような「非クラシック」の作曲家としてのガーシュインの姿でした。オープニングでいきなり聞こえてくる、彼の代表的なミュージカル「ポーギーとベス」の冒頭を飾る「ジャスボ・ブラウンのブルース」は、そんな「ショービズの世界へようこそ!」というブラレイからのメッセージなのかもしれません。そして、ガーシュイン自身によってピアノ・ソロに編曲された「ラプソディー・イン・ブルー」が続きます。これこそが、ホワイトマンやグローフェによって渋々まとわされた「クラシック」の衣をかなぐり捨てた、この曲の真の姿なのかもしれません。控えめにスイングするブラレイのピアノからは、そんな開放感が伝わってくるようです。
次のトラック、1932年に出版された「ソング・ブック」こそは、このアルバムのメインと言っても差し支えないでしょう。これは1918年にアル・ジョンソン(彼も映画には本人役で出演していましたね)によって歌われ、最初の大ヒットとなった「スワニー」を始めとした18曲のヒット・チューンのオンパレードです。もちろん、編曲はガーシュイン自身ですが、注目したいのはその中にあふれるファンタジー、元の曲をそのまま聴かせるのではなく、そこから自由に広がるアイディアが、いかにもスマートです。
後半には、ウィリアム・ドリーによって編曲された「パリのアメリカ人」(この曲をクラシックと思う人はいないでしょう)に続いて、「前奏曲」とか「即興曲」といったタイトルのピースが収められています。イタリア語の表情記号まで伴った、いかにも「クラシック」っぽいものですが、聞いてみれば「ソング」と何ら変わらないスタイルとテイスト、彼は、どこまで本気で「クラシック」の作曲家になりたがっていたのでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-01 20:46 | ピアノ | Comments(0)
BEETHOVEN/Piano Concertos Nos.3&4


Yefim Bronfman(Pf)
David Zinman/
Tonhalle Orchestra Zurich
ARTE NOVA/82876 64010 2
(輸入盤)
BMGファンハウス/BVCE-38087
(国内盤 5月25日発売予定)


ブロンフマンというピアニスト、昨年11月にはゲルギエフとともに来日したウィーン・フィルとの共演で、大きな話題を呼びましたね。最近、その模様がテレビで放送されたものを見る機会がありましたが、会場での聴衆の熱狂ぶりはものすごいものでした。大きな体でラフマニノフのピアノ協奏曲第3番をいとも易々と演奏する様もさることながら、アンコールでスカルラッティのソナタという、非常にかわいらしい曲を軽やかに弾いていた姿が、私にはとても印象的でした。そういえば、あのホロヴィッツもスカルラッティを好んで演奏していましたから、ブロンフマンも、この世紀のヴィルトゥオーゾのようにこの愛らしい曲にテクニックを超えたところでの愛着を感じているのかもしれませんね。
そのブロンフマンが、ジンマン指揮のチューリッヒ・トーンハレというコンビをバックにベートーヴェンのピアノ協奏曲を録音しました。最近のこの指揮者の実績を考えると、これはあまり相性が良さそうな組み合わせではあるとは思えません。果たして、どんなことになるのでしょう。
そんなある意味「負」の予感は、「第3番」の冒頭のハ短調の分散和音が弦楽器によって奏でられたとき、見事に的中してしまったことを実感しないわけにはいきませんでした。例によって、当人たちは「オリジナル楽器」のポリシーを込めたつもりでやっているであろう、一つ一つの音を無愛想に短く切るという演奏、もちろん、彼らだけでそういうことをやっている分にはなんの問題もないのですが、そこにブロンフマンの洗練されたピアノが入ってくると、それは瞬時に色あせた安っぽい表現に見えてくるのです。このピアニストが紡ぎ出す、ムラのない音色や、輝かしい響き、そのバックとして、このような素っ気ない表現、そして、ビブラートをかけないで弾かれるガット弦の甲高い音色や、ゲシュトップがかかったナチュラル・ホルンのちょっとひなびた響きほど、ふさわしくないものはありません。「第4番」のフィナーレでは、弦楽器の導入に続いてソロのチェロだけを伴うピアノソロが入ります。最初にこの部分を聞いたときには、私のリスニングルームの外を、バイクでも走っていったのかという錯覚に陥ってしまいました。それほどこの華麗なピアノが鳴り響いている中では異質な音色でしかない「オリジナル」っぽいチェロの響き、このミスマッチを、私たちはどのように受け取ればいいのでしょうか。
例えば第3番の第2楽章などでは、ジンマンは見事なまでにピアノをサポートして、一体となった美しい音楽を作り上げています。しかし、オーケストラが前面に出て来る楽章では、その違和感は拭いようがありません。ジンマンは、ブロンフマンをソリストに選んだ時点で、それまでのかたくなな姿勢を改めるか、あるいは自らの意向に忠実なフォルテピアノの演奏家を新たに指名するか、どちらかの道を選ぶべきだったのです。そうしていれば、価格の安さしかじんまん(自慢)出来ないようなアルバムにはならなかったはずです。
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by jurassic_oyaji | 2005-05-12 19:29 | ピアノ | Comments(0)