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カテゴリ:オーケストラ( 506 )
BEETHOVEN/Symphoniy No.3 'Eroica'
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Maxim Emelyanychev
Nizhny Novgorod Soloists Chamber Orchestra
APARTE/AP191



1988年生まれ、まだ30歳になったばかりのロシアの指揮者、マキシム・エメリャニチェフのCDです。ジャケットの写真を見ると、なにかエキセントリックな感じがしますね。なんとなく、あのギリシャのカリスマ指揮者、テオドール・クレンツィスとよく似た雰囲気を持ってはいないでしょうか。
確かに、このエメリャニチェフはクレンツィスとは浅からぬ因縁がありました。というか、実際にその演奏を聴いたことだってあったのです。彼は指揮者であるとともにピアニストとしても活躍しているのですが、クレンツィスが録音したモーツァルトの「ダ・ポンテ三部作」ではフォルテピアノで参加していました。その中の「フィガロ」では、そのフォルテピアノについても言及していましたね。
もちろん、指揮者としても、彼はクレンツィスの教えを受けていますし、それ以前にはロジェストヴェンスキーにも師事していたのだそうです。そして、すでに世界中のオーケストラとの共演を果たし、今年の春にはなんと日本で東京交響楽団にも客演したのだそうですよ。
そんなエメリャニチェフが、去年の9月に、ニジニ・ノヴゴロドで録音したのが、この最新アルバムです。ベートーヴェンの「交響曲第3番」と、ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」が収録されています。オーケストラは、その街のニジニ・ノヴゴロド・フィルのメンバーによって組織された「ニジニ・ノヴゴロド室内管弦楽団」です。
その名前の通り、メンバー表などは付いていないので正確な人数は分かりませんが、ここではかなりの少人数の弦楽器で演奏されていることがはっきり分かります。一瞬、それらはピリオド楽器を使っているのかと思ってしまいますが、どうやら使われているのはモダン楽器のようでした。ピッチもモダンピッチです。ただ、弦楽器は徹底したノン・ビブラートで演奏していますし、奏法やフレージングも限りなくピリオド楽器に近くなっているようです。
管楽器も、ホルンあたりはモダン楽器のような気がします。それで、時折ゲシュトップなどを使って「ピリオドっぽい」テイストを加えているのでしょう。フルートは最後までもしかしたらトラヴェルソかな、とも思ったのですが、やはり終楽章のソロを聴けば、モダンフルートに間違いないでしょう。それにしても、音色はとてもまろやかですから、少なくとも木管の楽器には違いないでしょうね。
そして、エメリャニチェフの指揮ぶりは、とても颯爽たるものでした。1楽章から3楽章まではもうまるで他の指揮者と速さを競っているのでは、と思えるほどのものすごいスピードで駆け抜けます。ただ、それは例えばカラヤンあたりがやっているように、フレーズの切れ目を、まるで映画の編集のように細かく切り詰めて否応なしに速さを感じさせるという手法ではなく、きっちりと自然の流れを保ったうえでのスピードアップですから、そこにはカラヤンのような「息が詰まる」感覚は全くありません。それは、まさに至芸のひと時でした。
フィナーレになると、テンポはぐっと落ち着いてきます。ただ、テーマが終わって最初の変奏になった時に、とてつもないサプライズが待っていました。エメリャニチェフは、その44小節目からの弦楽器を、それぞれ「一人で」弾かせていたのです。同じようなことをやっていたのは、こちらの、ベーレンライター版が出始めたころのデヴィッド・ジンマンですが、それはあくまでその楽譜に指示のあった(他のパートですが)その次の変奏(60小節目アウフタクトから)からの話ですから、こんなことをやったのはエメリャニチェフが初めてなのではないのでしょうか。
カップリングのブラームスでは、おそらく弦楽器の人数も増やしているのでしょう、ベートーヴェンのような鋭角的なサウンドではなく、もっとロマン派寄りのまろんやかなサウンドに変わっていました。これもすごいことです。

CD Artwork © Aparte Music

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by jurassic_oyaji | 2018-12-06 20:04 | オーケストラ | Comments(0)
MAHLER/Symphony No.6
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Teodor Currentzis/
MusicAeterna
SONY/19075822952


来年には待望の初来日も果たすことになるクレンツィスとムジカエテルナのコンビ、今回はマーラーの「交響曲第6番」です。
このオーケストラの正体はいまいち謎めいたところがあります。確か朝日新聞に、「ピリオド楽器もモダン楽器も同じ人が演奏している」というようなことが書いてあったような気がしますが、そんなことが本当に可能なのか、とつい疑ってしまうほど、どちらのフォーメーションでも素晴らしい演奏を聴かせてくれていますね。
一応オペラハウスのオーケストラですから、今回の曲のような大編成にも十分に対応できるだけのメンバーを擁しているのでしょう。なんせ、ブックレットにあるメンバー表を見てみたら、弦楽器は18.18.17.16.11という、計80人の陣容ですからほぼ「20型」の編成に相当する人数です。そして管楽器は楽譜の指定通りの木管は5人ずつ、ホルンはアシが1人加わって9人、トランペットは6人、トロンボーンは4人+チューバ1人、それに打楽器6人にハープ4人、チェレスタ1人で合計131人です。すごいですね。
ただ、ハープは一応楽譜の指定では「2人」となっています。
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ところが、実際には第3楽章で
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このように「4人」と指定されています。ですから、今回のように本当は4人必要なんでしょうね。
実は、木管はクラリネットだけは全曲通して5人必要ですが、フルート、オーボエ、ファゴットは3つ目の楽章までは4人分のパートしかありません。最後の第4楽章になってそれぞれ1人ずつ増えるんですね。ですから、その「5人目」の人はどうしているのか気になったので、この間BSで録画したラトルのベルリン・フィルお別れコンサートの映像を見てみました。もちろん、最初からちゃんと5人ずつ座っていましたね。ついでに、この時の弦楽器の編成は完全な18型でした。しかし、ハープは2人しかいませんでした。
さらに、この時には楽章の順序も、2番目に「アンダンテ」、3番目に「スケルツォ」と、このCDとは入れ替わった形になっていましたね。これは、ご存知でしょうがこの曲では楽章の順番が異なる2種類の楽譜が存在しているからです。そもそも初演の時に出版された印刷譜(KAHNT)は自筆譜通りの「スケルツォ/アンダンテ」だったものが、その初演でマーラー自身が楽章の順番を変えて演奏したので急遽「アンダンテ/スケルツォ」という改訂版が出版されていますからね。
それが、1963年に出版されたマーラー協会のクリティカル・エディション(KAHNT)では「スケルツォ/アンダンテ」に変わっています。ところが、同じマーラー協会から2010年に出版されたばかりの最新の楽譜(PETERS)ではラトルのような「アンダンテ/スケルツォ」に変わってしまっているですから、困ったものです。本当のところはどちらの言い分が正しいのかは分からない(イーブン)のに争っているのは、ほとんど泥仕合。
クレンツィスの前回のアルバム、チャイコフスキーの「第6番」では、思いきりデフォルメされた演奏だったので、覚悟を決めてこのマーラーの「第6番」に臨んだのですが、聴こえてきたのはいともまっとうなものだったので、逆に拍子抜けしてしまいました。それは、あくまで楽譜に忠実な演奏だったのです。しかし、彼がマーラーの指示に忠実に従うことによって、そこからはとてつもなくドラマティックであり、同時に繊細極まりない音楽が生まれることになりました。
131人のオーケストラが全員で「咆える」シーンでは、ほとんど狂気とも思えるような叫びが聴こえます。そこでは、クレンツィスはメンバー全員の思いのたけをめいっぱい解放させているようにも思えます。そして、セッション録音ならではの、ありえないほど明瞭に聴こえてくるチェレスタが加わったシーンでは、まるでシュトラウスの「ばらの騎士」のような瀟洒に煌めくサウンドが堪能できます。
これほどに「美しい」音楽の前では、楽章の順番などはどうでもよくなってしまいますね。

CD Artowork © Sony Music Entertainment

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by jurassic_oyaji | 2018-11-27 23:35 | オーケストラ | Comments(0)
BEETHOVEN/Symphony No.3, STRAUSS/Horn Concerto No.1
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Willem Caballero(Hr)
Manfred Honeck/
Pittsburgh Symphony Orchestra
REFERENCE/FR-728SACD(hybrid SACD)


ホーネックとピッツバーグ交響楽団とのとても新鮮な一連の録音は、毎回とても楽しませてもらえます。今回は、以前「5番」と「7番」を手掛けていたベートーヴェンで、「3番」です。録音されたのは2017年の10月。
弦楽器の編成は16型という大編成でのベートーヴェンです。この弦楽器の人数はブックレットにあるメンバー表で、カップリングのシュトラウスのホルン協奏曲のメンバーとともに乗り番の人が明記されているのですが、このシュトラウスは2012年の録音なので、その間にかなりメンバーが入れ替わっているのが分かります。ファースト・ヴァイオリンには23人の名前がありますが、両方の曲に乗っている人は11人しかいません。それ以外の人はこの5年間に辞めたか新しく入った人、そしてエキストラです。そう、こんな立派なオーケストラなのでエキストラなんか必要ないのでは、と思っても、そもそも最新のメンバー表ではファースト・ヴァイオリンは14人しかいませんから、16型で演奏する時にはエキストラが必要なんですよね。このベートーヴェンの時はコンサートマスターもエキストラ(ゲスト・コンサートマスター)でしたからね。まあ、日本でもエキストラなしで16型を組めるところなどはN響と東フィルしかありませんから、どこのオーケストラも、台所事情も厳しいようですね。
もちろん、ハイブリッドSACDの5.0マルチチャンネルで録音されていますから、サラウンド対応で聴いてみます。ライブ録音なのでしょうから、あくまでもホールの客席で聴いた音場が忠実に再現されているようですね。ステージはあくまでフロントに集中、それをホールトーンでまわりから包み込む、という設定です。ただ、注意深く聴いてみると木管セクションと弦楽器との前後関係がよく分かります。特にオーボエがかなり遠くから聴こえてくる感じで、あまり目立ちません。フルートも同じ位置なのですが、これはかなり通る音なのでくっきり聴こえてきます。ただ、金管も音場的には奥なのですが、音色がとても目立つので(もしかしたらピリオド楽器?)、常にくっきりと聴こえてきます。
この「3番」も、以前のベートーヴェンと同様、とてもエキサイティングな演奏でした。第1楽章はかなり早めのテンポ、冒頭のアコードもかなり短かく切った演奏で、ピリオドっぽいテイストを感じさせてくれます。ホーネックはライナーノーツの中で、「4つの楽章は全て『ダンス(舞曲)』の楽章ざんす」と言いきっていますが、確かにこの楽章も、あくまで「3拍子」にこだわったリズミカルな処理が目立ちます。特に2拍ずつ区切って大きな「3拍子」になる「ヘミオレ」での躍動感が、かなりスリリングです。
しかし、第2楽章では一転してゆったりとした足取りの葬送行進曲(これも舞曲)になります。ダイナミクスも極端な落差を見せ、ピアニシモでは本当に聴こえるか聴こえないほどのかすかな音までに落としたりしたかと思えば、葬送ラッパの部分では大音量、しかも普段目立たないパートの音を強調させるなど、油断できません。
と、楽章が4/5ほど進んだ207小節目(12:07)で、突然「5番」の冒頭の、いわゆる「運命」のモティーフがホルンで朗々と鳴り響いたではありませんか。びっくりしてスコアを見てみると、確かに3番ホルンにそういうフレーズがありました。
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こんなところにあのモティーフが隠されていたなんて今まで何度もこの部分を聴いていたはずなのに全く分かりませんでした。あわてて他の録音を聴きまくってみましたが、この3番ホルンがここまではっきり聴こえる演奏は全くありませんでした。というか、これは意図的に目立たせないと、絶対に聴こえません(もちろん、ホーネックは3番奏者にしっかり指示をしたそうです)。
こんなサプライズを味わえたのが、このSACDの最大の収穫です。ベートーヴェンの演奏には、まだまだ奥深いものがあります。

SACD Artwork © Reference Recordings

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by jurassic_oyaji | 2018-11-25 20:13 | オーケストラ | Comments(0)
BACH/Oboe Concertos & Cantatas
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Xenia Löffler(Ob)
Anna Prohaska(Sop)
Václav Luks/
Collegium 1704
ACCENT/ACC 24347


お気に入りのチェコのアンサンブル、ヴァーツラフ・ルクスが率いる「コレギウム1704」の最新アルバムは、バッハのオーボエを中心にした協奏曲と教会カンタータの「二本立て」でした。まずは2001年からベルリン古楽アカデミーのメンバーとして大活躍のバロック・オーボエの名手、クセニア・レフラーの演奏で3曲のオーボエがらみの協奏曲です。彼女はリングで活躍してはいません(それは「レスラー」)。
バッハの作品の数多くのものは現在では楽譜が失われてしまっていますが、彼の場合は一つの曲を別の作品として使いまわすということを頻繁に行っていましたから、残された曲からその元になった曲を推測して再構築することは可能です。
ここで演奏されている3曲のうちの2曲は、現在ではチェンバロのための協奏曲として広く知られているものを、オーボエをソリストとした協奏曲に直したものです。まずはBWV1056のヘ短調のチェンバロ協奏曲を、おそらく最初はト短調でメロディ楽器のために作られたものだろうという推測の元に演奏しています。この曲は、真ん中のラルゴの楽章がとても美しいメロディで、オーボエならではのカンタービレを味わうことが出来るはずです。
もう一つのBWV1055は、イ長調の曲ですが、やはり旋律楽器のためのものと推察され、さらにキーがかなり低いので、普通のオーボエではなくその短3度下の「A管」であるオーボエ・ダモーレで演奏されています。これも、やはり真ん中の短調で歌われるラルゲット楽章のもの悲しさは、この楽器ならではの音色でさらに深く伝わってきます。
もう一つの2つのチェンバロのための協奏曲として残っているBWV1061では、おそらくここで初めて演奏されるはずのティム・ウィリスの編曲が使われています。現在ではチェンバロ2台と弦楽器と通奏低音のための協奏曲として知られていますが、オリジナルの形はチェンバロ2台だけという「デュエット」の編成だと言われています。確かに、真ん中の楽章は楽譜ではチェンバロだけで演奏されるようになっていますから、バッハは両端の楽章に弦楽器で同じ声部を加えたり、時には新たなフレーズを作って加えたりしているのですね。
しかし、今回の編曲では、チェンバロの右手と左手の声部をそれぞれ別の楽器に置き換えるという大胆な発想で再構築が行われました。その結果、第1チェンバロのパートはオーボエとヴィオラ・ダ・ガンバ、第2チェンバロはヴァイオリンとファゴットという4つの楽器に置き換えられ、そこに弦楽器と低音が加わる、という「合奏協奏曲」として生まれ変わっているのです。
もちろん、これは完全な「でっちあげ」ですが、その効果はなかなか興味深いものでした。特に最後の楽章のフーガでは、それぞれの声部がくっきりと浮かび上がってきて、最終的には8つの声部が入り乱れての複雑なフーガとなるのですから、かなりエキサイティングです。
この曲の現在の形だと、あとから加えた弦楽器が、なにか唐突な感じがしてしまいますが、この編曲では何の違和感もなくすべての声部の必然性が感じられるようになっているのではないでしょうか。
それらの協奏曲に挟まれる形で、クール・ビューティのソプラノ、アンナ・プロハスカが2曲のソロ・カンタータをとても熱く歌っています。BWV84"Ich bin vergnu()gt mit meinem Glu()cke"では、最初のアリアにはオーボエ、次のアリアにはオーボエとヴァイオリンのオブリガートが入ります。もちろん、オーボエはレフラーです。
そして、BWV52"Falsche Welt, dir trau ich nicht!"では、冒頭のシンフォニアがブランデンブルク協奏曲第1番の最初の楽章の「使いまわし」ですから、オーボエが3本とホルンが2本加わっています。そして、2番目のアリアでは、そのオーボエ3本が全員オブリガートを吹いていますし、最後のコラールにはホルンが加わっています。
そんな、無駄のない編成と相まって、まるで一夜の粋なコンサートを味わったような気分になれました。

CD Artwork © note 1 music gmbh

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by jurassic_oyaji | 2018-11-21 00:01 | オーケストラ | Comments(0)
STRAVINSKY/The Rite of Spring, Funeral Song etc.
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Gustavo Gimeno/
0rchestre Phioharmonique du Luxembourg
PENTATONE/PTC 5186 650(hybrid SACD)


グスターボ・ヒメノは、いま最も注目されているスペイン生まれの若手指揮者です。「若手」とは言っても生まれたのは1976年ですから、すでに40歳を過ぎたおっさんですけどね。まだ萎びてはいません(それは「ヒモノ」)。
元々はロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の打楽器奏者として音楽家としてのキャリアをスタートさせたヒメノですが、やがて指揮者に転身、ヤンソンス、ハイティンク、アバドなどのアシスタントを務める中で、彼らから多くのことを学びます。
これまでにロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団を始め、クリーヴランド管弦楽団、ボストン交響楽団、ウィーン交響楽団、スウェーデン放送交響楽団、サンタ・チェチーリア音楽院管弦楽団、マリインスキー管弦楽団との客演指揮を果たし、2015年からはルクセンブルク・フィルの音楽監督に就任して、現在に至っています。
彼は2013年に日本でも指揮者デビューを果たしていますが、その時のオーケストラが仙台フィルだというのが、ちょっと興味をひきます。なんでこんな地方オケと、と思ってしまいますが、この時のコンサートは「ルツェルン・フェスティバル アーク・ノヴァ松島2013」というもので、震災復興のイベントとして、本来はクラウディオ・アバドが指揮をするはずだったものでした。ヒメノはアバドの代役に「抜擢」されていたのですね。そして、ルツェルン祝祭管弦楽団の「代役」が仙台フィル。
ヒメノとルクセンブルク・フィルとのアルバムは順調にこのPENTATONEレーベルからリリースされているようで、これを含めてすでにおそらく6種類のアルバムが出ています。もちろんすべてハイブリッドSACDでマルチ・チャンネルのサラウンド対応です。
今回のアルバムは2枚組で、ストラヴィンスキーの作品集です。このSACDを聴いてみようと思ったポイントは2つ。まずはそのハイレゾのサラウンドで「春の祭典」を聴いてみたかったこと。そして、ごく最近行方が分からなかった楽譜が発見されて話題を呼んだ若いころの作品を、実際に聴いてみたかったからです。
まずは、「春の祭典」です。これはもう、サラウンドで聴かれることを前提にして録音を行ったのではないか(もちろん、セッション録音です)と思わせられてしまうほどの、それぞれの楽器がくっきりと浮き上がってくるクリアな音でした。それは、手を延ばせばその奏者に届くほどのリアリティを持っています。
そんな音像の中で、ヒメノは実に巧みなバランスを保ちながら、それらの音をコントロールしています。それは、「指揮者」というよりは「バランス・エンジニア」の仕事ぶりのようにさえ感じられます。ですから、確かに音響的には非常にエキサイティングな振る舞いが聴こえてはくるのですが、なにか音楽的に感興をそそられることがあまりないのですね。この演奏からは高揚感のようなものがほとんど感じられず、したがってそれによって心が振るわせられることは決してありませんでした。
「春の祭典」より前、1909年に、師であるリムスキー=コルサコフの追悼のために作られた「葬送の歌」という曲は、初演は行われたものの出版はされず、その楽譜は行方不明になっていました。それが、2015年になって改修工事が行われていたサンクトペテルブルク音楽院の図書館で偶然発見され、翌年ゲルギエフ指揮のマリインスキー管弦楽団によって甦演が行われました。録音は2017年の8月にシャイー指揮のルツェルン祝祭管弦楽団によって行われています。今回のヒメノは、それに次ぐ録音でしょうか。
これは、何とも渋い曲で、ワーグナーのような響きがあちこちで聴こえてくる興味深いものでした。
ここまでが1枚目、2枚目になると作曲年代がずっと先になって、「カルタ遊び」、「バーゼル協奏曲」、「アゴン」といったアイロニーあふれるこじゃれた作品が並びます。こちらの方が、なにかヒメノのいいところが発揮できているような気がするのですが。

SACD Artwork © 0rchestre Phioharmonique du Luxembourg/PENTATONE Music B.V.

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by jurassic_oyaji | 2018-11-10 22:11 | オーケストラ | Comments(0)
BACH/The Brandenburg Concertos
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Lars Ulrik Mortensen/
Concerto Copenhagen
CPO/555 158-2(hybrid SACD)


こちらの「ロ短調ミサ」で、情感のこもった演奏が印象的だったモーテンセン率いるコンチェルト・コペンハーゲンが、同じバッハの「ブランデンブルク協奏曲」の全曲を録音してくれました。前回は合唱の方に惹かれたのですが、今回はもちろん合唱はありませんから、楽器ばっはりで演奏する時のこの団体の力がもろに感じられるはずです。
ご存知のように、この6つの協奏曲ではそれぞれに使われている楽器が異なっています。すべての曲に入っているのはヴィオラ、チェロと通奏低音だけですからね。オーケストラの定番であるヴァイオリンですら、「6番」では参加を許されていません。もっとも、今もそうですが普通のヴァイオリン奏者でしたら、まずヴィオラも弾けるはずですから、バッハの時代の楽団ではここでヴァイオリン奏者の出番がなかったわけではないのでしょうけどね。
「ロ短調」の時には弦楽器のパートは複数の奏者が演奏していましたが、今回はきっちり「1パート1人」という編成をとっているようです。もちろん、「3番」ではヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのそれぞれの弦楽器が3つのパートに分かれていますから、それぞれ3人で演奏しています。そこに低音が2人加わって総勢が14人、このアルバムの中では最大の人数となっています。
その次に多いのが「1番」の13人ですが、こちらはソリストの人数では最大を誇っています。オーボエが3人、ホルンが2人、普段は低音しか弾かないファゴットにも独立した声部が用意されていますし、そこに「ヴィオリーノ・ピッコロ」という小さなヴァイオリンも加わって、総勢7人ですからね。この「ヴィオリーノ・ピッコロ」のちょっとプリミティブは味わいが、和みます。
この人たちが演奏する時には、何か常にクレッシェンドとディミヌエンドを繰り返すような表現をとっています。ピリオド楽器の団体ではあまりこんなことはしないような気がするのですが、おそらくこのあたりがこのコンチェルト・コペンハーゲンの持ち味なのでしょう。そこからは、全員がそれぞれの熱い思いを込めて演奏している様子を感じることが出来ます。
その半面、アンサンブルとしてはなんとなくユルいところも見られます。ホルンなどは元々演奏が難しいのでしょうが、いくらピリオド楽器でももっと上手に演奏している人はほかにいくらでもいるな、という感じ。でも、そのあたりも含めたうえでの、指揮者であるチェンバロ奏者のモーテンセンの、それぞれに伸び伸びと演奏させている姿勢も、しっかり伝わってきます。ですから、そもそもこの曲自体がハチャメチャな作られ方をしているということが、如実に分かってしまうというユニークな演奏に仕上がっているのでしょう。
「2番」では、ソロ楽器はトランペット、リコーダー、オーボエ、ヴァイオリンという、やはり多彩なラインナップです。その中で、トランペットとリコーダーが、同じ土俵でのアンサンブルを披露しているのですから、ちょっとすごいことです。確かに、ここでのリコーダーはあり得ないほどの存在感を示しています。
「3番」は弦楽器だけですから、やっと落ち着いたアンサンブルを聴くことが出来ます。早めのテンポでグイグイ迫るグルーヴはなかなかのものです。両端の楽章の間を埋めるモーテンセンのチェンバロ・ソロもよいセンスです。
「4番」ではリコーダーもさることながら、ヴァイオリン・ソロを担当しているコンサートマスターのフレドリク・フロムのほとんどヘンタイとも言える演奏には度肝を抜かれました。彼が登場すると、すっかり持って行かれます。
「5番」の第1楽章などは超ハイスピード。そこで繰り広げられるモーテンセンの「速弾き」には圧倒されます。
「6番」では、脱力感すら味わえる穏やかな演奏に好感が持てます。
そんなさまざまな味わいを、とても安らぐ素敵な録音で楽しむことが出来ました。

SACD Artwork © Classic Produktion Osnabrück

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by jurassic_oyaji | 2018-11-08 20:46 | オーケストラ | Comments(0)
MOZART/Symphonies Nos. 35"Haffner" & 36"Linz"
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Gordan Nikolić/
Netherlande Chamber Orchestra
TACET/S 230(hybrid SACD)


ドイツのレーベルTACETは、ノルウェーの2Lレーベルと並んで、サラウンド録音には積極的な姿勢を見せています。ただ、2Lの場合は今ではすべての製品がサラウンド対応になっていますが、こちらは製品としてはノーマルCDでのリリースもあるので、注意が必要です。つまり、例えばこちらのアルバムなどは、まずCDでリリースされたのでそれしかないのだと思って購入したら、半年ほどしてハイブリッドSACDの製品がリリースされたので、悔しい思いをしたことがありますから。
今回のモーツァルトの交響曲集では、しっかりサラウンドのロゴが入ったハイブリッドSACDだったので、安心です。ここのサラウンドは、例えばこちらの弦楽五重奏だと、このように、
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フロントにファースト・ヴァイオリン、セカンド・ヴァイオリン、ファースト・ヴィオラ、リアにセカンド・ヴィオラ、チェロという定位になっていて、リスナーは完全にこの5人に囲まれているど真ん中にいることになります。まあ、このサイズでは、演奏者は練習などはこんな配置でやっていたりするのでこれは彼らにとっても特に違和感はないはずです。
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しかし、今回はオーケストラでこんな配置の録音が行われていました。まあ、オーケストラと言っても「室内」オーケストラですから、こんなことも可能なのでしょう。指揮者がいる時には、こんな並びではとても不自然ですが、ここではコンサートマスターが合図を送るだけで、あとはそれぞれの奏者が他のすべての奏者と顔を見合わせることになるのですから、アンサンブルとしては理想的な形なのかもしれません。
この室内オーケストラはオランダ室内管弦楽団という団体ですが、これは現在ではマルク・アルブレヒトが首席指揮者を務めるオランダ・フィルハーモニー管弦楽団のメンバーによって組織されています。コンサートマスターはどちらもゴルダン・ニコリッチですし、こちらの首席指揮者もアルブレヒトです。
言ってみれば、このSACDは、彼らが普段行っているリハーサルを、その真ん中に座って聴かせてもらうという、とてもレアな体験を提供してくれるものなのでしょう。
これが、録音の時の様子です。
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この写真や実際の音を聴く限り、弦楽器と木管楽器はモダン楽器ですが、金管楽器やティンパニはピリオド楽器を使っているようです。ただ、ここでは「ハフナー」の両端楽章にしか出番がないフルートが、どうもトラヴェルソのようなのですね。これはちょっと珍しいケースですが、これでかなりの「ピリオド感」は演出できています。
もちろん、これは写真でもわかるように、彼らの練習場である「オランダ・フィル・ドーム」で行われたセッション録音で、何度も録り直しが可能なのでしょうが、その「ハフナー」のしょっぱなで、いきなり弦楽器のアンサンブルが乱れていたのには驚きましたね。まあ、それはそれで流れを重視した結果なのかもしれません。演奏自体は、やはり「ピリオド」っぽい刺激的なところは全くない、とても穏やかな表現に終始しているものでした。もうすこしメリハリをつけてもいいような気もしますが、まあそれは好みの問題でしょう。
ただ、このサラウンドで聴こえてくる金管チームの存在感は、ちょっとなじめません。普段はある程度距離を置いたところで聴こえてくるこれらの楽器がすぐ近くの耳元で鳴っているのは、曲を楽しむにはかなり特殊なシチュエーションであることが分かります。まるで、オーケストラの練習の時に、金管だけが練習させられているのを聴いているような感じなんですね。ちょっとこれは辛い気がします。
その分、肝心の弦楽器がはるか彼方から聴こえてくるような感じがします。これでは音楽としてはいかにもアンバランスなものになってしまいます。定位はいじらなくていいのですから、もう少し金管に距離感を持たせるような配慮があれば、もっと楽しめたのではないでしょうか。

SACD Artwork © TACET

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by jurassic_oyaji | 2018-11-01 21:21 | オーケストラ | Comments(0)
TCHAIKOVSKY/Swan Lake
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Vladimir Jurowski/
State Academic Symphony Orchestra of Russia
PENTATONE/PTC 5186 640(hybrid SACD)


このオランダのレーベルのSACDのジャケットには、「折り紙」の白鳥があしらわれていますね。そして、なんとこの2枚組のボックスの中に、その「折り方」を説明した紙が入っているのですよ。オランダでも折り紙は親しまれているのでしょうか。
この「折り白鳥」はただジャケットを飾っているだけではなく、これを使ってプロモーション用のコマドリ動画が作られていました。双子の演歌歌手(それは「こまどり姉妹」)ではありません。なぜか、最初に登場するのが蛙(これももちろん折り紙)というのが面白いですね。
「白鳥の湖」と言えば、チャイコフスキーが作ったバレエ、いや、すべてのバレエの中で最も人気のある演目なのではないでしょうか。ただ、ご存知のようにこれが1877年に初演された時にはそれほどの評判にはならなかったものが、作曲家の死後の1895年に「改訂版」が上演されたことによって、現在の人気につながるブレイクを果たしたのですね。
「改訂版」と聞くと、まずは楽譜のことだと思ってしまいますが、このバレエに関しては大きく「改訂」されたのは脚本の方でした。ここでは、チャイコフスキー自身も関わって作られた初演の時の脚本が、大幅に変えられていたのですね。それに伴って、脚本と振付に合わせるために音楽のテンポが変えられ、曲の順序の差し替え、カット、さらにはチャイコフスキーの別の作品の挿入などの措置が取られました。それが、ここでの「改訂」の実態です。バレエに関しては全くの門外漢なので、詳しいことは分かりませんが、現在上演されている「白鳥の湖」は、ほとんどがこの改訂版が元になった形のようですね。
しかし、チャイコフスキーはこの音楽を単なる「バレエのための伴奏」として作ったわけではありません。それは、まるでそれ自体が巨大な交響曲のような、綿密な設計の元に作られていたのです。それは、曲の構成やテーマの扱い、そして調性の設定までに及んでいます。1895年の「改訂」では、そのような作曲家の思いが完全に破壊されてしまっているのでしょうね。
ですから、コンサートでこの曲を「全曲」演奏する時には、1877年の初演の時のバージョンで演奏するのは当たり前のことなのですよ。実際、楽譜として出版されているのはこの形ですからね。それを、このSACDではわざわざ「1877 world premiere version」と謳っていますが、そんな風に特別扱いする必要は全くないのですね。
もうひとつ、これは例によってこれを扱っている日本の代理店の仕業ですが、そのインフォでは「セッション録音」と表示されています。これは、ブックレットの中で指揮者のユロフスキが「2017年2月に行った一晩の演奏を録音」と言ってますから、全くのデタラメです。確かにクレジットではもう1回、2018年2月にも録音が行われたことになっていますが、これは前の年の録音のミスなどを修正するためのセッションで、メインの音は2017年のコンサートで収録されたものです。こういうものは普通は「ライブ録音」と言いますよね。実際、「セッション録音」ではありえない会場ノイズや、アンサンブルの乱れもあちこちで聴こえますし。
なんせ、トータルで2時間半の演奏時間ですから、「交響曲」としてはかなり長め。しかし、ここにどっぷりとつかって、その時間軸の中でのテーマの関係とか、全体の構成などを考えながら聴いていると、全くその長さを感じることはできません。
なんたって、チャイコフスキーはそれぞれのシーンに美しすぎるメロディを惜しげもなく使って、聴くものを全く退屈させることはありません。そのメロディの中でもっとも有名なあの「情景」のオーボエ・ソロは、紛れもなくワーグナーの「ローエングリン」の中のモティーフのパクリなのですが、これはもはやそんなレベルの問題ではなくなってしまいますね。
逆に、ここからパクられた曲があるぐらいですから。第4幕の第27番「小さな白鳥たちの踊り」は、絶対「夜来香(イエライシャン)」の元ネタです。

SACD Artwork © Pentatone Music B.V.

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by jurassic_oyaji | 2018-10-25 21:29 | オーケストラ | Comments(0)
BEETHOVEN/Piano Concertos 4 & 5
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Nicholas Angelich(Pf)
Laurence Equilbey/
Insula Orchestra
ERATO/0190295634179


かつて、ロランス・エキルベイは、自身が作った「アクサンチュス」という合唱団とのアルバムをたくさんちゅくって(作って)いました。ですから、彼女は合唱しか指揮ができない「合唱指揮者」だとずっと思っていたのですが、2014年に録音したモーツァルトの「レクイエム」では、なんとその2年前に作った自らのオーケストラ、「インスラ・オーケストラ」の指揮をしていましたね。しかも、そのオーケストラはピリオド楽器を使っていたのですから、驚いてしまいました。
ただ、その時はあくまで主役は合唱団でしたから納得は出来ましたが、今回は合唱が全く入らないピアノ協奏曲、しかもベートーヴェンの「4番」と「5番」という王道中の王道のピアノ協奏曲のオーケストラを指揮しているではありませんか。またもやびっくりです。
彼女も先日のミンコフスキ同様、NAÏVEから ERATOに変わってしまったアーティスト、どちらのレーベルの趣味なのかは分かりませんが、このジャケットにあるそのベートーヴェンの肖像画は、なんかとても爽やかな感じですね。これらの協奏曲が作られたのは1805年から1809年にかけてですから、1770年生まれのベートーヴェンは30代後半、実際はこんな感じの若々しさだったのかも知れませんね(ということは、このブックレットに書いてある通り、再来年の2020年は彼の「生誕250年」ということになるのですね。個人的には、オリンピックよりもこちらの方がそそられます)。
このピアノ協奏曲が作られた時期には、交響曲では「4番」、「5番」、「6番」が作られています。まさに彼の作曲家としての黄金期ですね。当然、この2曲のピアノ協奏曲はコンサートもレコーディングもおびただしい数のものが存在していますから、そこで注目を集めるためには何らかのセールスポイント(「奇策」とも言う)が必要になってくるのでしょう。そこで、エキルベイとピアニストのニコラ・アンゲリッシュは、ピリオド・オーケストラとモダン・ピアノを協演させることにしました。ただ、いくらなんでも現代のスタインウェイではあまりにもアンバランスですから、「1892年に作られたプレイエル」というのを持ってきました。これは、ベートーヴェンの時代の「フォルテピアノ(=ピリオド・ピアノ)」とは一線を画した新しい楽器ではありますが、まだまだ鄙びた音色を残していて、ピリオド・オケとの共演もそれほど違和感がないものなのでしょう。何よりも、「この楽器だったら、ベートーヴェンが表現したかったことが完全に伝えられるだろう」という指揮者とピアニストの思惑が、ここには込められているはずです。
確かに、「4番」がピアノ・ソロで始まった時に、そのなんとも軽やかで輝きのある音には、先ほどの「爽やかな」ベートーヴェン象が眼前に広がりました。そこに入ってくるバックの弦楽器も、こちらはもちろんガット弦のソフトな感触でそのピアノを包み込みます。少なくとも、このあたりまでは音色的にはこの19世紀初頭と19世紀末とのコラボは成功しているかのように思えます。
しかし、「5番」になると、ピアノとオーケストラの間になにか相容れない溝のようなものが感じられるようになってきました。音色はソフトでも、ピアノはメカニカルな面では堂々たる押し出しを誇っていて、まさにベートーヴェンの時代を超えた大きな音楽を作ろうとしているのですが、オーケストラがなんともサロン的なまとまりに終始しているのですよ。特に木管パートの主体性のなさといったら、もう歯がゆくなってしまうほどです。例えば第2楽章でフルートがテーマを吹くシーンでは、ピアノに隠れてそのメロディが全然聞こえてきません。エキルベイは、「大ホールでも通用するようなピリオド・オケ」を目指しているのだそうですが、そもそもそのような用途に対応していない楽器を使っているのですからそれは無理なことだとは気が付かないのでしょうか。

CD Artwork © Parlophone Records Limited

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by jurassic_oyaji | 2018-10-16 23:12 | オーケストラ | Comments(0)
MAHLER/Das Lied von der Erde
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Magdalena Kožená(MS)
Stuart Skelton(Ten)
Simon Rattle/
Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
BR/900172


マーラーの「大地の歌」の作曲に関しては、たとえば昔のレコード(CD)の曲目解説には「『9番』の呪縛」といった言葉がよく使われていたものでした。マーラーが交響曲を作り続けてきて、それが「9番目」になった時に、彼の脳裏に「作曲家は交響曲を9つ作ると死ぬ」という「呪いの言葉」が浮かんだのだそうです。彼以前の作曲家で、たとえばベートーヴェンは確かに9曲しか作っていませんし、そのあとのドヴォルジャークやブルックナーも、そしてマーラーの時代の数え方ではシューベルトもやはり「9番」が最後の交響曲(ブルックナーの場合は未完)になってしまいました。そこで、この9番目の交響曲に番号を付けると、自分は死んでしまうのだと思い込み、それには番号ではなく「大地の歌」というタイトルを付けました。ところが、その次に出来てしまった「交響曲」は、さすがに番号なしというわけにはいかず、仕方なくそれに「第9番」という番号を付けますが、その後にもう一つ作ろうとした「第10番」はとうとう完成させることはできずに作曲家は亡くなってしまったので、やはりその「呪い」はあったのだと、世の中の人々は納得したのです。
しかし、現在ではこれはほぼ完全に事実誤認だとされています。この話のそもそもの出所は、妻のアルマ・マーラーが書き綴った回想録の1908年、つまり「大地の歌」を作っている時期の記述です。それは、
彼は縁起をかついで、あえてこれを交響曲とは呼ばなかった。それによって運命の手から逃がれようとしたのだった。(石井宏訳)
というものです。ただ、もちろん、マーラーは冗談半分にそんなことを周りの人に語ったことぐらいはあったかもしれませんが、本心はそんな深刻なものではなかったはずです。まあ、この曲は、言ってみれば「歌曲集」と「交響曲」が合体したような作品ですから、単に番号を付ける必要はないと考えただけなのでしょう。ですからこれは、マーラーを悲劇の主人公に祀り上げようというアルマの策略だったのではあるまいか、というのが、最近の学者たちの一致した見解のようですね。
同じように、この曲のテキストとして用いられたハンス・ベートゲの「シナの笛」と、その元になった中国の漢詩との関係も研究が進みます。そもそも、ベートゲは漢詩を直接ドイツ語に訳したわけではありません。最初はかなり主観の入ったフランス語に意訳されたテキストがあって、それがドイツ語に訳されたものを、ベートゲがさらに詩の形に直しているのです。そして、その最初のフランス語訳の段階で、漢詩の中にあった世界観は西洋的な似非オリエンタリズムに変換されてしまったとも言われています。その象徴的な「誤訳」が、第3楽章の「Von der Jugend」の冒頭の

Mitten in dem kleinen Teiche
Steht ein Pavillon aus grünem
Und aus weißem Porzellan.
(小さな池の真ん中に 緑とそして白の陶器による あずまやが立っている)

という部分です。
これの原作とされているのが李白の「宴陶家亭子」なのですが、そこでは「陶」は「陶器」ではなく「陶さん」という人物のことなのだそうなのです。だから、「あずまや」は普通の木造なんでしょうね。でなかったら、その中での宴会なんて、かなり危ないことになってしまいます。
そんな、いかにもあの時代にありがちな「西洋人が見た東洋」として、ラトルがこの曲を演奏しているのかどうかは分かりませんが、それは素晴らしい録音も手伝って、とてつもなく精緻な音楽に仕上がっていました。もう、全ての楽器が彼の意のままにそこにある、といった感じ。そういうマーラーも、たまにはいいものです。
スケルトンのテノールはちょっと一本調子ですが、コジェナーは相変わらずのハイテンションでの歌いっぷり。第4楽章の「Von der Schönhait」の途中の低音で、わざとピッチを外して歌っているのも、鬼気迫るものがあります。ただ、これは半世紀前に録音されたバーンスタイン盤でフィッシャー=ディースカウがやっていたことですけどね。

CD Artwork © BRmedia Service GmbH

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by jurassic_oyaji | 2018-10-04 20:50 | オーケストラ | Comments(0)