おやぢの部屋2
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カテゴリ:オーケストラ( 480 )
MAHLER/Symphony No.4



Anu Komsi(Sop)
Roger Norrington/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.164



最近は、CDが作られる時間が、おしなべてスピードアップされているように感じられませんか?
実際、録音されてからまず1年以内には発売されるものが多くなったというのは、「ライブ録音」がだいぶ多くなったこととは無関係ではないのでしょうね。例の「ニューイヤーコンサート」などは演奏された日から数週間後には店頭に並ぶという早さですしね。しかし、7月に入手したこのCDには驚いてしまいました。なにしろ、ブックレットには「2006年9月録音」と記載されているのですから。テクノロジーの進歩は、ついに2ヶ月先の演奏のCD化までをも可能にしてしまったのでしょうか。もちろん、これは単なるミスプリント、外側に付いている「日本語」のコシマキではきちんと「2005年9月」となっていますからご安心を。そう、前回の「1番」同様、ここでもコシマキだけではなくブックレット本体までがきちんと「日本語」で読めるようになっているのです。この前のブラームスのDVDで「日本語」の字幕を付けたりと、このレーベルは日本のファンに向けてのサービスには抜かりはありません。
いつもながらの「ピュア」なサウンドを目指しているノリントンたちのアプローチ、マーラーではちょっと辛いものがあるな、と前回の「1番」を聴いた時に感じたものでした。ですから、今回「4番」を聴くにあたっても、最も関心が向いてしまうのはその点であったのは、当然のことでしょう。それは、第1楽章でヴァイオリンがメロディを歌い出すと、「やっぱり」と思わせられたことにより、現実に何らかの引っかかりがあることが明らかになりました。その時につい連想したのが、歌が上手に歌えなくても「歌手」として大成できることを初めて実証してくれたという、あの松任谷由実でした。この、決してビブラートを付けて歌わない(というか、歌えない)「歌手」からは、なんの魅力も感じない人であれば、その「引っかかり」の感触が分かるはずです。現実には、このアーティストはまっとうな「歌手」としての致命的な欠陥があるにもかかわらず多くのファンに支持されています。それはひとえに、彼女が作り出す曲のユニークさと、それを最大限にアピールしてくれる華麗なアレンジの賜物に違いありません。「歌」のデメリットを差し引いてもあまりあるその魅力が、彼女をこれだけの人気者にしているのではないでしょうか。
ノリントンたちの場合も、同じことが言えます。とりあえず、なんの歌心も感じられない弦楽器には目をつぶってみると、その他の面での魅力が満開になって迫ってくることが分かるでしょう。特に、管楽器が表情豊かに音楽をリードしている場面の、なんと多いことでしょう。この曲で管楽器がこんなに活躍していたなんて、初めて気が付いたような気がします。第1楽章の後半、クライマックスに達したあたりの金管楽器の迫力の凄さには、思わず度肝を抜かれてしまいました。
第2楽章でも、ノリントンが目指したであろう切迫した音楽の運びは、主に管楽器によって形づくられていきます。その、意外性がふんだんに盛り込まれたフレーズの処理を味わっているうちに、時たま聞こえてくる無表情な弦楽器にも、それなりの聴かせどころが用意されていることが分かってきます。それは、主に過激なまでのアクセントと、グリッサンドの指示に対する異常なまでの忠実さです。このグリッサンドを聴いていると、マーラーが求めたもの以上の表現、もしかしたらクセナキスあたりにまで通じるかもしれないものが感じられてしまうのが、不思議です。
第3楽章ともなれば、いくら聴くまいとしても弦楽器に耳をふさぐわけにはいきません。それにもかかわらず、例えばほとんど終わり近くに現れるFis-MollからFis-Durに変わる瞬間に確かに純正なハーモニーが聴き取れたりすれば、これこそが「シュトゥットガルト・サウンド」の成果であろうと納得させられてしまうのです。確かに、現代のフルオーケストラでこれだけ澄んだ響きを味わえることはまずありません。ただ、これは彼らの「実験」の一つの段階だと思いたいものです。このような響きのポテンシャルを持った弦楽器セクションが、さらにたっぷり歌うことを身につけたならば、もはや怖いものは何もなくなってしまうことでしょう。その時には、第4楽章のソリスト、コムシのように、無理矢理ビブラートを押さえつけられることもなくなってくるはずです。
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by jurassic_oyaji | 2006-08-13 19:43 | オーケストラ | Comments(0)
BRAHMS/Complete Symphonies








Roger Norrington/
Radio Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/93.903(DVD)



ベートーヴェン、メンデルスゾーン、マーラーなど、多くの作曲家の交響曲全集を着々と進行中のノリントンとシュトゥットガルト放送交響楽団のコンビですが、いきなりブラームスの4つの交響曲が出たのには驚いてしまいました。しかもCDではなくDVD、ちょっと珍しい形のリリースです。ブラームスの交響曲に関しては、ギーレンのCDが同じレーベルで出たばかりなので、そのあたりに配慮した結果なのでしょうか。
このDVDは、彼らのホームグラウンドであるリーダーハレで収録されたものです。ただ、全員燕尾服姿の本番モードなのですが、聴衆がいる気配が全くありませんから、おそらくコンサートの前のゲネプロを撮ったものなのでしょう。指揮者をとらえるカメラも木管のすぐ前にありますから(これを探すのに、苦労しました)、「別撮り」を行ったカットもなく、リアルタイムでスイッチングしていたのでしょう。いわば、限りなく「ライブ」に近いもの、CDでも最近ではことさらセッションを設けることなく、「ライブ」をそのまま使うことが日常的になってきているという現状を考えると、演奏の精度自体にはなんの遜色もないということが出来ます。しかも、このDVDの場合には音声トラックが通常の2チャンネルステレオと、5・1サラウンドが選択できますから、スペック的にはSACDと同程度のものが提供されていることになります。その上に、各交響曲の前には20分ほどの指揮者ノリントンのインタビューが収録されています。彼はCDのライナーノーツの中でもその曲に対する自分の思いの丈を子細に述べていますので、それと同じ、あるいははるかにその「思い」が深く伝わる肉声が、日本語字幕によって味わえるのですから、これはかなりポイントが高くなります。これだけのものが揃ってCD3枚分ほどのお値段なのですから、割安感は募ることでしょう。これからはこういう形のリリースが増えてくるかもしれませんね。
その映像と、事細かなインタビューによって、このユニークなコンセプトを持ったチームの特色が明らかになります。楽器の配置はいわゆる「両翼方」というか「対話型」という、ファースト・ヴァイオリンとセカンド・ヴァイオリンが両サイドに位置するもの、普通この配置だとコントラバスが下手奥にあるものなのですが、ここでは真後ろ中央に一列になっているのが特徴的です。そのコントラバスの前には木管楽器、そして、その木管を挟むように下手にホルン、上手にトランペットとトロンボーンという、ここでも「対話型」を形成している点が、注目されるところでしょう。そして、16型の弦楽器に対しては、木管楽器を倍増させる「倍管」編成をとるというのも、ノリントンの主張です。「減るものでなし」と、腰元に迫るのでしょうか(それは「代官」)。
演奏が始まると、弦楽器のメンバーは全くビブラートを掛けていないことがすぐ分かります。普通のオーケストラではまず見られない、ちょっと異様な光景、これこそが、このチームの誇る「ピュア・サウンド」が産み出される現場だという思いが、ヒシヒシと伝わってきます。しかし、しばらく見ていると、その様な「掟」に背いている人が時おり見られるようになってきます。いつもの習慣でつい無意識に手首が動いてしまうのでしょう、それに気づいて、慌ててノンビブラートに戻す様子が、とても可愛らしいものです。
その点、管楽器奏者は、ビブラートに関してはそれほど神経質にはなっていないように見受けられます。とりあえずフルートあたりはほぼ全員木管の楽器で統一しているぐらいの配慮、ソロともなれば普通のノリで歌いまくっています。ノリントンの求めたものはあくまでトゥッティにおける「ピュアさ」なのでしょうから、ソロに対しては固いことは言わないのかも知れませんね。
その様なサウンド面だけではなく、ノリントンのこだわりは楽譜の読み方にも現れています。単に楽譜に忠実に、というだけではなく、その当時のブラームス特有の表現を、楽譜から読み取ってそれを再現しようという試みです。その最もショッキングな成果が、交響曲第2番の冒頭でしょう。この部分、ホルンと木管によるテーマは、4小節単位でひとかたまりに歌うというのが、ごく一般的な演奏ですが、ノリントンはなんと1小節ごとにボツボツと切って吹かせているのです。確かに、スコアではスラーは1小節ごとに付いていますよ。


「楽譜通り」というのは、こういうことなのですね。このやり方は、もちろん他の部分でも貫かれますから、この曲全体が全く異なったテイストを持つことになります。これは、かつてモーツァルトあたりで味わった新鮮さ、ただ、ブラームスの場合はこれが主流になるとはとても思えません。もちろん、ノリントンはそんなことは気にもせず、刺激的な試みをこれからも続けてくれることでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2006-08-06 20:04 | オーケストラ | Comments(0)
HOLST/The Planets



Simon Rattle/
Berliner Philharmoniker
EMI/3 59382 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55855/56(国内盤 8月23日発売予定)


ホルストの「惑星」といえば、太陽系の、地球を除く7つの惑星の名前をそれぞれタイトルに持つ7つの曲の集まりとして誕生したものでした。作られた当時は9番目の惑星である「冥王星」はまだ発見されていなかったため、最後は「海王星」で終わるという構成になっていました。それは、女声合唱のループが延々と続く中にフェイド・アウトがなされ、その先の果てしない宇宙空間に思いを馳せる、という趣向だったのでしょう。
しかし、せっかくだから「冥王星」も加えて全ての惑星を含んだ形でこの名曲を完結させたいという動きが、世紀の変わり目に起こります。2000年にケント・ナガノから委嘱を受けた1946年生まれのイギリスの作曲家、コリン・マシューズ(それまでに、ホルストの楽譜の校訂などをしていた実績を買われたのでしょう)によって作られた「冥王星」が、その年の5月にナガノ指揮のハレ管弦楽団によって世界初演されたのです。さらに、翌2001年の3月には、マーク・エルダー指揮の同じオーケストラによって初録音され(HYPERION/CDA 67270)、世界中の人の耳に届くことになります。「惑星」からの引用はありますが、ホルストの作風とはかなり肌触りの異なるこの「冥王星」は、しかし、ごくすんなりとオリジナルの曲の中に受け入れられたように見えます。それ以後に録音されたCDでは、かなりの数が「冥王星付き」となっていますし、実際のコンサートでもこの「8曲版」を取り上げる指揮者は増えています。卑近なところでは、あさっての8月6日にも、宮崎で開催される日本アマチュアオーケストラフェスティバルで、岩村力の手によって演奏されるはずです。アマチュアのオーケストラが取り上げるというレベルまで認知されたということで、確実に「冥王星」は「惑星」の仲間入りを果たしたと考えて良いのではないでしょうか。
もっとも、最近では冥王星を惑星と見なすこと自体に疑問も投げかけられているようですから、先行きは不安です。学問的には「惑星」ではないのに、曲としての「惑星」には入っている、などという事態にならなければいいのですが。
ところで、太陽系の惑星には、冥王星うんぬんを議論する前にホルストの曲からは抜けているものがありました。それは、火星と木星の軌道の間に存在する多数の(現時点で30万個以上)小さな天体の集まり、「小惑星」です。もちろん、「大」も臭いはず(「小は臭え」)。そこで、その小惑星をテーマにした曲を「惑星」に加えようと考えたのが、ベルリン・フィルのシェフ、サイモン・ラトルです。いくらなんでも30万曲は無理ですから、とりあえず4人の作曲家に1曲ずつ委嘱しました。フィンランドの重鎮カイヤ・サーリアホの「小惑星4179:トータティス」、ドイツの若手マティアス・ピンチャーの「オシリスへ向かって」、イギリスの中堅マーク=アンソニー・ターネジの「ケレス」、そして、元ベルリン・フィルのチェリストでもあるオーストリアの作曲家ブレット・ディーンの「コマロフの墜落」というのが、その4曲です。いずれも、程良い難解さを持った、しかし、まるで映画音楽のようなスペクタクルな外見を持つ、聴き応えのある作品です。中でも、ソユーズ1号の乗組員で、宇宙での最初の犠牲者となったソ連(当時)の宇宙飛行士を扱ったディーンの「コマロフの墜落」は、リズミカルなパターンに導かれたジャズっぽいテイストが、親しみやすさを呼んでいます。
このCDは、今年3月に行われたその様な「『フル』惑星」の、もちろん世界初演のコンサートを丸ごと収めたものです。「小惑星」が入った2枚目のCDの余白はエンハンストCDとなっていて、ラトルと、そしてそれぞれの作曲家(サーリアホだけは字幕によるコメント)のインタビューやリハーサルの模様が映像で見られるようになっています。
実際のコンサートでは、この「小惑星」が演奏されたあとで、いわゆる「惑星」が演奏されました。それは実に賢明な構成だったのではないでしょうか。先にこの無気力で投げやりな演奏の「惑星」を聴いてしまったら、とても後半の現代曲を聴こうなどという気にはならなかったことでしょうから。
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by jurassic_oyaji | 2006-08-04 20:00 | オーケストラ | Comments(3)
MOZART/Symphonies Nos. 40 & 41



Marc Minkowski/
Les Musiciens du Louvre
ARCHIV/00289 477 5798
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCA-1064(国内盤 7/26発売予定)


最新の「ジュピター」のCDは、昨年の10月にグルノーブルで行われたライブ録音、ミンコフスキのオーケストラ、「ルーヴル音楽隊」の配置に、まず目を引かれます。第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが向かい合うという、いわゆる「両翼」配置は、もはやこの時代の音楽では常識ですが、その間を埋めるはずのヴィオラとチェロが後ろに下がり、その代わりに木管陣が最前列に出ているという非常にユニークな形を取っています。コントラバスはさらにその後ろの中央、つまり、木管楽器は左右と後ろを弦楽器にすっぽり囲まれるということになります。これは音響的にも、そして、実際に演奏する時のアンサンブル的にも、非常にメリットの多い配置のはずです。そのせいでしょうか、木管奏者たちは実に伸び伸びと演奏している感じが良く伝わってきます。お互いのパートをすぐそばで聴き合って生み出された自発的なアンサンブル、それを指揮者のミンコフスキがすくい上げて、仕上げに塩を一振り、そんな理想的な音楽の作り方が、ここでは見られます。
ミンコフスキはここで40番と41番という二つの交響曲を演奏するにあたって、それぞれのキャラクターを思い切り際立たせているように見えます。そのポイントとなるのが、楽器編成。トランペットとティンパニを欠く40番ではしっとりと、そして、それらが加わって派手な音色となる41番ではドラマティックに、という感じです。そして、ここが彼の趣味の良さなのですが、その2曲の対比を強調するために、間に「イドメネオ」からのバレエ音楽を挿入しているのです。スタティックな世界からドラマティックな世界への、これは言ってみれば予告編のような役目を果たすものなのでしょう。
しかし、それほど周到な準備があったにもかかわらず、41番冒頭の堂々たるたたずまい、ほとんど田舎芝居かと思わせられるほどの大げさな身振りには、しっかり驚かされることになります。さらに、それがほんの2小節後にはガラリと風景が変わって、可憐で慎ましい世界が現れるのですから、その「ドラマ」の振幅の大きさは、度を超しています。そこから見えるのは、もしかしたら気性の変化の激しかったモーツァルトその人の姿なのかも知れません(最近気象の変化が激しいですね)。
第2楽章でも、「ドラマ」は続きます。淡々と清らかな風景がいつまでも続くのかと思われたころ、オーボエとファゴットの「ソ・ド・ミ♭」というアウフタクトに導かれた19小節目では、いきなりテンポが上がって、そのシンコペーションはまるで嵐のような激しい情景を描き始めたではありませんか。それは、まるで風に吹かれる木の葉のような細かい三連符に乗って、恐ろしいほどの厳しさで迫って来たのです。そして、ひとしきり嵐が収まると、何ごともなかったかのようにもとの静かな風景が戻ってくる・・・。この曲でこんな想像をかき立ててくれる人なんて、他にいるでしょうか。
締めくくりの第4楽章は、ですから、見所、いや聴きどころ満載の歌あり踊りありのミュージカルかレビューのよう、逆らうことの出来ないほどの力でぐいぐい引っ張られる爽快感にあふれています。最後のクライマックス、二重フーガが始まる前には、そのスリルに備えるようにきちんと一息入れるところまで用意してくれていますから、もはや逃げるわけにはいきません。この世のものとも思えないティンパニの咆哮がこれでもかと盛り上げるエンディングまで、どっぷりと「ドラマ」に漬かって頂きましょう。
これは、改装成った「文化の家」でのライブ録音。演奏中にははっきり聞き取れるざわめきでその場のお客さんの存在感が伝わってきたものが、演奏が終わるやいなや誰もいないがらんどうの空間になってしまうというのがいかにも不自然です。ミンコフスキにこれだけ煽られておきながら、声一つ立てない聴衆などあり得ません。せっかくの「ドラマ」がとても白々しいものに思えてしまったのは、商品としての完成度をはき違えているメーカーの見当外れの親切心のおかげです。
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by jurassic_oyaji | 2006-07-12 00:14 | オーケストラ | Comments(0)
MAHLER/Symphony No.8


Soloists
Antoni Wit/
Warsaw Boys Choir
Warsaw National Philharmonic Choir and Orchestra
NAXOS/8.550533/34



このレーベル、本当に最近の躍進ぶりはめざましいものです。それを象徴しているのが、ジャケットのデザインの変化。左上にあるロゴマークがかつては黒字だったものが、今では青い背景に白抜きという粋なものに変わってきています。ほんのワンポイントですが、この違いはかなり大きなもの。これだけで、今までの垢抜けない印象がいっぺんに変わってしまうのですからね。そう思いませんか?
マーラーの交響曲をずっとクリムトのジャケットで出してきたヴィットですが、今までの「3、4、5、6番」ではまだ「白抜き」にはなっていません。それは、彼が2000年まで音楽監督を務めていたカトヴィツェのポーランド国立放送交響楽団との録音なのですが、今回の「8番」は2002年からの彼のポストを提供してくれたワルシャワ国立フィルとのもの、まるでよりランクの高いオーケストラとの演奏を記念するかのような、このジャケットの扱いです(たかがデザインで、そこまで・・・)。しかも、今回のクリムトの「花嫁」はより官能度がアップしていますし(そんなおやぢではいかんのう)。
このコンビでの演奏では、すでに「ルカ受難曲」を聴いています。あの時に受けた知的な印象は、ここでも健在でした。おそらくヴィットという人はこのような大編成の入り組んだスコアを音にするということにかけては並はずれたセンスを持っているのだということが、今回もまざまざと感じられることになります。
そんな指揮者の力量を余すところなく録音として伝えることに成功したエンジニアの力に、まず、驚いてしまいます。数多くのソリストや2群の合唱、そしてオルガンまで入った大編成のオーケストラというとてつもない音響を、彼らは全く濁らせることなくCDに収めてくれました。そのやり方は、まるでジオラマのようにパートごとの遠近感を持たせるという方法でした。例えば、第2部の練習番号77番からの「やや成熟した天使たち」の場面では、ソロヴァイオリン、その奥のオーケストラ、そして合唱、さらにはアルトのソロが、それぞれ程良い距離感を保ってあるべき場所から聞こえてくるという、非常にスマートな音場設定をとっているのです。その結果お互いが全く別のことをやっているという究極のポリフォニーを、マーラーが意図したとおりの分離の良さで味わうことが出来ることになったのです。
ヴィットの指揮は、予想通りクレバーなものでした。それは、もしかしたら「マーラーらしさ」からはほど遠い表現なのかも知れません。第2部の冒頭あたりからの管楽器の美しすぎるほど澄みきった響きを聴くに付け、そんな思いは募ります。淡々とした流れを突然断ち切るファーストヴァイオリンのフレーズ(練習番号14番)が、あまりに冷静なのにも驚かされます。しかし、それは決して不快な思いを抱かせるものではありませんでした。それどころか、非常によく訓練された合唱ともども、このオーケストラは極めて精緻でなおかつ見晴らしのよい世界を見せてくれていたのです。それは、それこそジャケットのクリムトのような「くどさ」とは全く無縁の心地よい世界のように感じられるものでした。
ところが、肝心のソリストたちがことごとくそんな世界をめちゃめちゃにしてしまっています。中でも「懺悔する女」のエヴァ・クウォシンスカが最悪。とてもソリストとは思えない稚拙な歌は指揮者の意図を汲む余裕などあろうはずもなく、見事にその場を台無しにしています。テノールのティモシー・ベンチも、この曲に要求される芯の太さが全くない悲惨なキャラ、彼らの尽力で、数多くの今までの「名演」がその存在を脅かされるという事態は、幸いにも避けられることとなりました。
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by jurassic_oyaji | 2006-06-29 20:18 | オーケストラ | Comments(0)
STRAVINSKY/Le Sacre du Printemps*, Mavra


Soloists
Péter Eötvös/
Junge Deutsce Philharmonie*
Göteborgs Symfoniker
BMC/BMC CD 118



ストラヴィンスキーの「春の祭典」と「マヴラ」をカップリングしたという、いかにもエトヴェシュらしいアルバムです。特に「マヴラ」などという作品、私にとっては初めて聴くもので、なかなか興味を惹かれるものでした。眠たくなることもありませんでしたし(「マクラ」、ですね)。
まず、「春の祭典」。もはやオーケストラのレパートリーとして「古典」ともなってしまったこの作品、まさに「名曲」として、さまざまな演奏家がさまざまなアプローチを試みたものが、山のように出回っています。そんな中にあってこのエトヴェシュの演奏は、作品から一定の距離を置いてあまり深い思い入れは込めず、スコアから音楽としてのメッセージを出来る限り伝えようとしているように思えます。このような姿勢の演奏、かつてブーレーズが1963年にフランス国立放送管弦楽団と行った時にはセンセーショナルなほどの物議をかもしたものですが、今となっては数多くのスタイルの一つに過ぎなくなっています。
エトヴェシュの場合、若いメンバーで構成されたオーケストラということもあって、その直截さは際立っています。冒頭のファゴットソロのなんの屈託もない明るさを聴くだけで、それは分かることでしょう。各楽器の鮮明な聞こえ方は、それこそブーレーズの比ではありません。普通はまず聞こえてくることのないアルトフルートが、こんなにはっきり聞こえる演奏など、初めてです。余計な思い入れが皆無なのは、「若い娘たちの踊り」のシンコペーションのパルスが、いともあっさり演奏されていることでも分かります。このエネルギッシュな部分をこんな風に演奏されると、エトヴェシュがこの曲から引き出そうとしたものは、粗野な力ではなく、もっと洗練された美しさなのではないかという思いが浮かんでくるほど、そしてそれは、第2部の冒頭を支配している透明な情景を味わう時、さらに現実味を帯びてくるのです。
1922年に初演された「マヴラ」は、作曲者が「新古典主義」の時代に入った時期の作品とされています。これは、彼の作った数少ない「オペラ」のひとつ。そもそもこの曲は1921年に聴いたチャイコフスキーの「眠りの森の美女」のロンドン初演に触発されて作られたと言いますから、その中にはベタなロシア民謡がふんだんに盛り込まれています。その上で、チャイコフスキーやグリンカのロシアオペラ、そして、もっと昔のイタリアのオペラ・ブッファのパロディという体裁を取っているという、何ともハチャメチャな作品です。台本にしても、そもそもタイトルの「マヴラ」というのが、登場人物の若い兵士が、恋仲の娘に頼まれて女装した時の名前なのですからね。前にこの家にいた料理人が死んでしまったので、その代わりということで召使いの振りをしてやってきた「マヴラ」、しかし、家の中に誰もいないと思って髭を剃り始めたら、母親が帰ってきたので彼女(彼)は窓から飛び降りる、という、どこかで聞いたことのあるようなストーリーです。あいにくライナーにはあらすじだけで対訳は載っていないため、細かい状況までは分かりませんが、歌手たちの大げさな歌い方の陰に潜むアイロニーは十分に伝わってきます。それを可能にしたのは、何と言っても手兵イェテボリ交響楽団の管楽器メンバーから軽妙な洒脱さと、シニカルなまでの冷徹さを引きだしたエトヴェシュの力でしょう。
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by jurassic_oyaji | 2006-05-22 19:13 | オーケストラ | Comments(0)
MAHLER/Symphonie No.2

Christine Schäfer(Sop)
Michelle DeYoung(MS)
Pierre Boulez/
Wiener Singverein, Wiener Philharmoniker
DG/00289 477 6004
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1292(国内盤)


ブーレーズとウィーン・フィルが共演した衝撃的な映像を見たのは、一体何年前になるのでしょう。その時の曲目はバルトークの「マンダリン」、あまりこういう曲には馴染みのないオーケストラのメンバーが、ブーレーズの指揮に必死になって食らいついているという感じがヒシヒシと伝わってくる、まさに指揮者とオケとの「対決」といった様相を呈していたスリリングなものでした。おっとりした馬に、がむしゃらに鞭を当てている騎手、といった趣でしたね。
そんなブーレーズも、いつの間にか齢80を超えてしまい、紛れもない老境へと入ってきていました。このジャケットの写真を見ると、そんな感慨がとみに湧いてくることを抑えるわけにはいきません。かつてのあの鋭い眼光は一体どこへ行ってしまったのか、そのうつろな瞳の中には、もはや他人を威圧するような輝きはありません。その様な印象が、今回演奏されているマーラーの2番でもしっかり「音」となって感じることが出来てしまうのですから、人間、外見ほど重要なものはありません(外見といえば、昔の写真を見ると彼は禿頭を隠そうとしていませんでした。しかし、いつの頃からか頭頂はたわわな髪に覆われるようになっており、それが今では見事な白髪に、一体何があったというのでしょう)。
第1楽章の冒頭を飾り、その後も何度となく繰りかえされる嵐のようなモティーフの、なんと「ドラマティック」なことでしょう。しかし、それはうわべだけのよそよそしいもの、その中には真の「激しさ」が決定的に欠けていることを感じることは出来ないでしょうか。そこには、自らの意志でオーケストラを鼓舞している姿は全く見られません。そのあとに続く対照的に穏やかな部分が、何ともソフトでメロウなのも、ただウィーン・フィルのいつもの歌い方をなすがままにさらけ出しているというだけのこと、それは、なんのテンションも感じられない、ただ美しいだけの弱々しいものでしかないのです。このセッションでの乗り番のソロフルートはシュルツ、もはやかつての輝きを失ったその暗めの音程は、そんな演奏を象徴しているかのように聞こえます。
「原光」でデヤングが歌い始めると、そんな慎ましやかな風景が一転して華やかなものに変わります。湯気を上げるヤキソバのよう(それは「ペヤング」)。この場ではもう少し抑制して欲しいと思わずにはいられないその奔放な(というより、音程の定まらない)メゾソプラノの毒気にあてられたように、心細げに寄り添うオーケストラの情けなさったら。
しかし、ソプラノ(シェーファーは、逆におとなし過ぎ)や合唱が参加し、様々な場面が交錯する最後の楽章になると、この老人は天性のバランス感覚を駆使して、かなり雄弁なドラマを作り上げてくれました。バンダの金管との絶妙のからみなど、見事としかいいようがありませんし、特に後半の合唱が加わってからの集中力には感嘆せずにはいられません。もちろん、信じがたいほどのピュアな響きを提供してそれをなし得た合唱の力量も称賛に値します。「熱狂」とか「迫力」といった言葉とはついぞ無縁のままエンディングを迎えても、青白い醒めた高揚感が心に残るという、希有な体験を味わわせてくれたブーレーズ、やはりただの老人ではありません。
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by jurassic_oyaji | 2006-05-12 20:41 | オーケストラ | Comments(0)
BRUCKNER/Symphony No.4




Philippe Herreweghe/
Orchestre des Champs-Élysées
HARMONIA MUNDI/HMC 901921



ブルックナーの交響曲の中では最も人気があり、演奏頻度も高い「ロマンティック」ですが、そのカタログに初めてオリジナル楽器によって演奏されたものが加わりました。ヘレヴェッヘ率いるシャンゼリゼ管弦楽団という、「7番」でも同じ試みで大成功を収めたコンビ、ここではどのようなものを披露してくれているのでしょう。
使用した楽譜は、残念ながら「オリジナル」である1874年の第1稿ではありませんでした。ここでヘレヴェッヘが用いたのは最も一般的な1878年(第1~第3楽章)と1880年(第4楽章)のいわゆる「第2稿」の中でもさらに一般的な「ノヴァーク版」です。同じように、オリジナル楽器でブルックナー(3番)を演奏していたノリントンがあくまで「第1稿」にこだわったのとは対照的、ヘレヴェッヘの場合はより洗練された形になった物の中から美しさを引き出そうという姿勢なのかも知れません。
そんな「美しさ」を極めようとする意志は、第1楽章の冒頭のホルンソロからすでに感じることが出来ます。弦楽器のトレモロに乗って現れるそのホルンの音色は、よくある威圧的な雰囲気など全く感じられない、まるで雲の間から差し込む一条の光のような柔らかな輝きを持っていたのです。それに続く木管のユニゾンも、特にフルートの素朴な音色に支配されて、とてもまろやかな響きを醸し出していました。もしかしたら、それは微妙なピッチのズレによってもたらされたある種の曖昧さに由来するものだったのかも知れませんが。
そんな、金管と木管とでは微妙に求めているものが異なるアンバランス感の中で、音楽は進んでいきます。金管のトゥッティでも、決して「咆哮」にはならない爽やかさが、耳に心地よく響きます。鼻にも心地よいことでしょう(それは「芳香剤」)。それは、あるいは高音成分の多いガット弦の音色がブレンドされることによって実現した響きなのかも知れません。
弦楽器がパートソロを披露する場面が多く現れる第2楽章になると、1212、9、8、6という少なめの編成とも相まって、大編成のモダン楽器を聴き慣れた耳には若干の違和感が伴うかもしれません。正直、最初のチェロパートのテーマには、深みというものが全く欠けているという印象を誰しもが持ってしまうはずです。このような表現を認めるか否かというところが、ある意味素朴すぎるオリジナル楽器での演奏が一般的になるかどうかの決め手になることでしょう。中程で出てくるヴィオラのパートソロも事情は同じなのですが、そこでは響きの貧しさを補ってあまりある程の繊細な表情を見せることに成功しているのを思えば、ヘレヴェッヘのアプローチにはまだまだ捨てがたいものがあることも分かるはずです。
第3楽章になると、その様な小さな編成はフットワークの良さに変わり、わくわくするような躍動感が生まれています。「狩りのテーマ」があちこちから聞こえてくるシーンでは、そのやりとりの間に生まれるちょっとスリリングな「ズレ」が、作り込まれたものではない、即興的な味を出しています。
そしてフィナーレも、押しつけがましいところなど全く見せずに、進んでいきます。そこからは、ブルックナーの持つ「くどさ」に辟易している人にも受け入れられるような、確かな「美しさ」が伝わってくることでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2006-05-06 20:03 | オーケストラ | Comments(0)
BRAHMS/Symphony No.2, Haydn Variations




Michael Gielen/
SWR Sinfonieorchester Baden-Baden und Freiburg
HÄNSSLER/CD 93.135



最近とみに円熟度を増したといわれているギーレン、このブラームスでも、懐の深いゆったりとした音楽を聴かせてくれています。第1楽章の第2主題など、とても細やかな情感が宿っていて、心が熱くなってしまいます。確かに、かつてのギーレンではこんな体験はあまり味わえなかったのでは。もちろん、それは老成して丸くなるのとは別のことです。現に、彼の持ち味である精密なリズム感は、ここでも健在です。例えば、第2楽章の終わり近くに現れる四分の四拍子と八分の十二拍子が同時に進行している部分(つまり、2拍子と3拍子が同時進行)での、その2対3のリズムの処理の見事さには、思わず舌を巻いてしまう程ですから。
ただ、第3楽章のちょっと重たいリズムの運びには、少し抵抗を感じてしまいます。正確なリズムではあるのですが、遊びが少ない分いかにも鈍重な印象を与えられてしまいます。もっとも、ギーレンのことですからこれは意識して「鈍くさいブラームス」を演出した結果なのかも知れませんが。
特に第4楽章などでの、「ここぞ」という場面でのティンパニの威力には驚かされます。殆どバランスを無視したかに見えるその大きな音は、確かにとてつもないアクセントとして、効果的に聞こえます。ただ、録音会場が異なるカップリングの「ハイドン・バリエーション」では、ティンパニはそんなに目立ってはいませんから、これは単なるホールの特性なのかもしれませんね。こちらの方でも、その卓越したリズム感は光っています。第5変奏のシンコペーションとヘミオレなど、見事としか言いようがありません。
ところで、オーケストラの楽譜の世界では、だいぶ前から「原典版」というものが注目されていました。水戸黄門ですね(それは「ご意見番」)。現在使われている楽譜が、必ずしも信頼の置けるものではないということで、自筆稿や初期の写譜、あるいは出版稿などを比較検討してより作曲家が書いたものに近い形の楽譜を作るというのが、「原典版」の思想です。それが、急にブレイクしてしまったのは、ご存じベートーヴェンの交響曲での「ベーレンライター版」です。原典版を作る作業というのは本来地味な仕事の積み重ねですから、それを成し遂げるにはかなりの時間がかかるものなのですが、この仕事を担当したジョナサン・デル・マーは、ほんの4、5年の間に全ての交響曲の原典版(元の形は大判のスコアと校訂報告)を作り上げてしまいました。さらに程なくして安価なポケットスコアまで全て出版されるに及んで、「ベーレンライター版」は殆ど一般名詞として世の音楽愛好家の間に浸透することになったのです。
ブラームスの場合は、ピアノ曲の原典版で有名なヘンレ社の手によって、個人全集の刊行が進行中です(実は、ベートーヴェンについても、ボンのベートーヴェン・アルヒーフとの共同作業で出版が計画されているのですが、交響曲は1番と2番が出ただけで、べーレンライターと、そしてブライトコプフに先を越されてしまいました)。現在までの刊行状況はこちらを見て頂ければ分かりますが、交響曲はまだ3番までしか出ていません。その3番にしてもポケットスコアが出るのはまだ先の話だとか。
2番が出たのが2001年ですから、今回のギーレンの演奏が録音された2005年には、使おうとすればこのヘンレ版を使うことは出来たのでしょうが、この、いつも使用楽譜の版をきちんと表記してくれているレーベルのブックレットには「ブライトコプフ版」とあります。どうやら、ブラームスの「ヘンレ版」が、ベートーヴェンの「ベーレンライター版」のような扱いを受けるには、まだまだ時間がかかりそうな気配です。
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by jurassic_oyaji | 2006-04-29 20:58 | オーケストラ | Comments(0)
Fantasista! MOZART





Various Artists
TOWER RECORDS/TWMZ-1



昨年のゴールデンウィークのさなかに東京で開催された「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンLa Folle Journée au Japon(日本の熱狂の日)」という音楽祭は、3日間で30万人以上のお客さんが集まったという、まさに「クラシックにあるまじき」(Yさん)盛況でした。酸っぱいですが(ラッキョウの日?)。クラシックといえば、ごく一部のマニアしか聴いていない音楽と思われがちですが、料金を安くしたり親しみやすい仕掛けを施すなどして敷居を低くすれば、人は集まるものだということを、この音楽祭は見事に証明してくれました。昨年はベートーヴェンが中心となったプログラムでしたが、2回目となる今年のテーマ作曲家はモーツァルト、ただでさえ生誕250年で盛り上がっているのですから、今回も5月3日から6日までの開催期間中は、有楽町の東京国際フォーラムの周辺はお祭りのような「熱狂」のにぎわいを見せることでしょう。
そんな、「モーツァルト・イヤー」と、「熱狂の日」という2大イベントを見据えて、ここぞとばかりに多くのコンピレーションが発売されているのは、ご存じの通りです。しかし、それらのものはお決まりの「癒しのモーツァルト」といった路線、いかにもお手軽な企画のように見えてしまって、本当のモーツァルト・ファン、本当のクラシック・ファンは見向きもしないのではないかと思われてなりません。
そんな、殆どクズ同然のアイテムの中にあって、このBOXは一本芯の入った企画が光っていて、なかなか手応えがありそうな感触がありました。タワーレコードとNAXOSの共同企画による10枚組のCD(それで2500円!)、それは単にモーツァルトの作品を並べるというだけではなく、そのモーツァルトに影響を与えたり、あるいは影響を与えられたりしたという周辺の作曲家までも含めた、大きな視野に立ったものだったのです。これだったら、かなりうるさいクラシックファンにも受け入れられるのでは。
1枚目から5枚目まではモーツァルトの生涯に即して、幼少時代から晩年までをコンパクトに紹介するものになっています。器楽曲だけではなく、オペラや声楽曲をバランスよく配しているのも好ましいものです。もちろん、それぞれの曲は1曲もしくは1楽章まるまる収録されていて、フェードアウトなどはかかってはいませんよ。
6枚目から8枚目までは、モーツァルトを巡る「過去、現在、未来」の作曲家たちの作品です。彼の伝記には必ず登場するエピソードが、「初めて聴いた多声部の曲を、その場で楽譜に書いた」というものですが、その現物、アレグリの「ミゼレーレ」を収録するのは、「過去」には欠かせないことです。そして「現在」になると、あのサリエリの登場です。映画「アマデウス」で、あまりにも偏ったイメージが浸透してしまったこの才能溢れる作曲家の作品、いざ聴こうと思ってもなかなか探すのは大変ですが、それがこんなに手軽に楽しめるのもすごいことです。「未来」は、彼の曲を素材にした作品。その中でもリストが「レクイエム」をピアノ用に編曲したものがあったなんて、初めて知りましたよ。こうなると、もはやマニアの世界と言ってもいいでしょう。
9枚目と10枚目は、20世紀半ばの演奏家達による、有無を言わせぬ名演集です。NAXOSの誇るヒストリカル音源を駆使して、今の小振りになってしまった演奏家達からは決して得ることの出来ない、まさに「巨匠」の音楽が堪能できることでしょう。ランドフスカがモダンチェンバロで弾いた「トルコ行進曲」なんて、他の企画では絶対あり得ない選曲でしょうね。そう、ここには、構成と選曲を担当した山尾敦史さんのこだわりが隅々にまでに溢れていて、決して安直に流れることはないのです。
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by jurassic_oyaji | 2006-04-27 18:10 | オーケストラ | Comments(2)