おやぢの部屋2
jurassic.exblog.jp
ブログトップ
カテゴリ:オペラ( 224 )
Mozart Arias

Magdalena Kozená(MS)
Simon Rattle/
Orchestra of the Age of Enlightenment
ARCHIV/00289 477 5799
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCA-1068(国内盤 9月27日発売予定)


チェコのメゾ・ソプラノ、マグダレナ・コジェナーは、今まさに「旬」の歌手と言えるでしょう。その、ちょっとエキゾティックな風貌と相まって、今や世界中でオペラ、コンサートと、引っ張りだこの状態です。ですから、もちろん今年のザルツブルク音楽祭にも出演、先日放送された「ガラ・コンサート」では、トリをとった「ザルツブルクの華」ネトレプコに一歩もひけをとらない、真にドラマティックな歌を披露してくれていました。その時にカメラが客席を捉えると、真ん中の席には彼女に惜しみない拍手を送っているサイモン・ラトルの姿がありました。その暖かいまなざしは、その半年前にこんな素晴らしいアルバムをコジェナーと作り上げた時の充実した日々を反芻しているかのように見えたものです。
そんな、彼女にとっては初めてというモーツァルト・アルバム、ラトルの包み込むようなサポートを受けて彼女の魅力が存分に発揮されているのはもちろんですが、曲目のラインナップを見て、メゾ・ソプラノのレパートリーだけではなく、本来はソプラノが歌うようなものまで含まれていることにも驚かされます。
先ほどのザルツブルクでは「ティートの慈悲」で男役のセストが歌うアリアを歌っていたのですが、ここでは彼(彼女?)が思いを寄せるバリバリのソプラノの役、ヴィッテリアのアリア(バセット・ホルンのオブリガートが素晴らしい!)を歌っています。さらに、「コシ・ファン・トゥッテ」では、なんと彼女はこのオペラに登場する全ての女性を一人で演じきっているのです。軽い声が求められる小間使いデスピーナのアリアは「男が、兵隊が、浮気しないとお思い?」という、うぶな姉妹につまみ食いをたきつける歌。くそ真面目な長女のフィオルディリージは、せっかくアバンチュールの機会があったにもかかわらず、最後の決心が付かず「行ってしまう―あなた、どうぞゆるして」と歌うアリア。そして、姉よりははるかにさばけている次女のドラベッラは、さっさと浮気を実行に移してしまって「恋は小さな泥棒」と、あっけらかんと歌います。どうです、これだけ性格の異なる歌を、コジェナーは音色も、歌い方もまるでそれぞれのキャラクターが乗り移ったような潔さで歌い分けているのです。
もう一つ、ここでは面白い試みがなされています。彼女の本来の声のロールは、「フィガロの結婚」のケルビーノのようなズボン役でしょうが、その代表的なナンバーの「恋とはどんなものかしら」を、そのままの形ではなく、盛大な装飾を施して歌っているのです。実は、これは彼女が即興的に加えた装飾ではなく、モーツァルトと同時代のイタリアの作曲家、ドメニコ・コリという人が1810年に出版した、歌手が装飾を勉強するための教科書の中で示していた「お手本」なのです。これは、以前紹介したこんなアルバムでも取り上げられていましたね。ただ、このコリのバージョンは、いかにも「こんな装飾もありますよ」というような実例の羅列ですから、楽しんで聴く時にはちょっとくどく感じられるかも知れません。せめて「1番」だけでも何もない素のメロディで聴いてみたいと思うのは、たとえばヤーコブス盤でのキルヒシュラーガーの絶妙な「2番」以降での装飾に身を震わせた聴き手の抱く、素朴な願望でしょう。果てしない椅音の猛攻には、いかにコジェナーの歌うものとはいえ、「もういおん」と、ちょっとうんざりさせられてしまいます。
とは言っても、同じ「フィガロ」でのスザンナのアリアが、再演で歌手が変わったために新たに差し替えられたものと並べられたりしていると、それぞれを歌った2人の歌手、ナンシーさんとアドリアーナさんの違いまでも、コジェナーによって明らかになってしまうのですから、すごいものです。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-09-16 20:26 | オペラ | Comments(0)
WAGNER/Der fliegende Holländer


Hermann Uhde(Bar)
Astrid Varnay(Sop)
Joseph Keilberth/
Chor & Orchester der Bayreuther Festspiele
TESTAMENT/SBT2 1384



先日「世界初のステレオ録音」などと大騒ぎ、果てはヴァイナル盤まで発売されることとなった「ヴァルキューレ」と同じ、1955年のバイロイトでのDECCAのステレオ録音です。ただ、こちらの方は別に「幻の録音」というようなことはなく、きちんとLPが発売になっていました。とは言っても、その時のレーベルが「DECCA」ではなく「ECLIPSE」であったことから、当時のこの録音の扱いがうかがえます。今でこそ過剰なまでの持ち上げ方をされていますが、発売時には正規の新譜としてではなく、廉価版としてリリースされていたのですからね。
「指環」より1ヶ月後の録音、さすがにツボも心得てきているようで、バランスなどははるかに自然なものを聴くことが出来ます。何と言っても、バイロイトのピットの「穴蔵」感が見事に再現されているのが素敵です。ここで聴くことが出来るまるで地の底から響いてくるようなティンパニの深い音と、その音場は、後の1971年に同じ場所でDGによって行われた同じ曲の録音(指揮はベーム)をはるかにしのぐクオリティを持っているほどです。
使われている楽譜はこの時代の慣用版ですから、「ゼンタのバラード」はト短調、「救済のモチーフ」付きという普通のバージョン。幕間もなく、全曲が切れ目無く演奏されていますが、そのいわゆる「第1幕」で、オランダ人のウーデが登場すると、そのあまりのだらしなさに一瞬たじろいでしまいます。なんというアバウトな音程とリズムなのでしょう。有名なモノローグでのピカルディ終止、1回目は低すぎますし2回目は高すぎ、ここが聴かせどころなのに、やはりこのあたりがライブの宿命なのでしょうか。
しかし「第2幕」はいろいろな意味で聞きものです。ヴァルナイの「バラード」でのとてつもないたっぷりとした歌い方にまず驚かされますが、そんな重々しいテンポでも全くバテることなく、軽々とこの難曲を歌い上げているのはさすがです。ここはまさにヴァルナイの独壇場、同じ旋律が、次第に女声合唱の割合が多くなっていくという構成ですが、彼女のパワーに圧倒されて、最後に合唱だけになった時のなんと情けないこと。この部分に代表されるように、この「幕」全体が、この演奏では異様に重苦しい空気に支配されています。先ほどのウーデが加わると、「暗さ」にかけてはは負けていないこの歌手によって、重々しさはさらに募ることになります。これはひとえに、指揮者の責任でしょう。全ての音符、全てのフレーズに力を入れずにはおかれないこの重厚な(鈍重な、とも言う)指揮者カイルベルトによって、いかにもドイツ的な融通の利かない世界が広がることになりました。真夏に「懐炉ベルト」ですって。なんと暑苦しい。
本来、この場面はオランダ人とダーラントという全く別の種類の人間が醸し出す別々の世界が同居している部分。ダーラントは、言ってみれば現世の俗っぽさの代表ということで、少し軽くやってほしい所なのですが、その「ダーラントさんチーム」までが一緒になって重苦しがっているのですから、いかにもダサい音楽になってしまいます。
同じようなパターンが、「第3幕」のノルウェー船とオランダ船とのやりとりの合唱。これも、元気さだけが取り柄の「ノルウェーさんチーム」といかにも不気味な「オランダさんチーム」の対比が面白い所なのに、両方とも同じようなハイテンションで迫ってくるのでは、いささか疲れてしまいます。
ここで、「もっと力を抜けばいいのに」と感じるのは、現代人の感覚でしょうか。現代ではもっと「賢い」演奏が主流となっていますから、その様な細やかな対比を強調するのが当たり前だと思われています。しかし、現実にこれだけの鈍重さを信念を持って推し進める人がいた時代が確かにあったことを、この素晴らしい録音は知らしめてくれているのです。これこそが、「記録」としての重み、ヴァーグナーの演奏史を語る上で欠くことの出来ない「資料」が、またひとつ手に入りました。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-08-27 20:21 | オペラ | Comments(0)
WAGNER/Siegfried










Wolfgang Windgassen(Ten)
Astrid Varnay(Sop)
Joseph Keilberth/
Orchester der Bayreuther Festspiele
TESTAMENT/SBTLP 0111(LP)



「おやぢの部屋」始まって以来の、LPのレビューです。今や音楽ソフトはCDの時代からSACD、そしてネット配信と「進歩」の一途をたどっていますから、そもそも「LPの新譜」などあり得ない、とお思いでしょう。私もそう思っていました。ところが、ここにきて、いきなりLP19枚組の「指環」が新譜としてリリースされたというのです。レーベルを見てお気づきのことでしょうが、それはここでも一部ご紹介した1955年のバイロイトのライブ録音、DECCAが世界で初めてステレオ録音を行ったあの「指環」全曲です。もちろんこれはCDで初めて世に出たものなのですが、そのあまりのクオリティの高さに、いっそのこと、録音の時に想定していたフォーマットであるLPの形でリリースしてしまおうと、このメーカーは考えたのです。
全世界で限定1000セット、それぞれにシリアルナンバーが打たれているという、マニアにはたまらないものですが、このセットは分売なしの一括販売、値段も9万円という、「指環1曲」としてはべらぼうな価格設定となっています。いくら優れた秘密の工場(ここが明らかになると、注文が殺到するので、メーカーはその在処を知らせないのだとか)で作られたとはいえ、その製品の品質の保証は、聴いてみるまでは分かりません。そんなものに「9万円」というのは、ちょっと勇気のいること、そこで、メーカーが用意したのが、このテスト盤です。5枚組の「ジークフリート」の最後の面だけを(つまり片面)プレスしたというものです。これを聴いて大丈夫だと思ったら、全曲を注文してくれ、ということなのでしょう。
全くの真っ白なレーベルに、真っ白なジャケット、そのジャケットに貼り付けられた宛名シールのようなものに印刷されている曲名が、このLPに関する全ての情報という、まさに「テスト盤」(でも、2000円もします)、しかし、袋から中身を取り出して手に持ってみると、その重さはかなりのものがあります。その昔慣れ親しんでいたものとは明らかに異なる、それは文字通り「重量感」でした。この時点で、このLPがいかに手間を掛けて作られたものであるかがうかがえます。そして、しばらく使っていなかった、しかし、いつでも最高のコンディションで再生できるように調整してあったレコードプレイヤーにこのLPをセットし、針をおろした瞬間、想像もしなかったことが起こりました。そこからは、かつてさんざん悩まされたLP特有のサーフェスノイズが、全く聞こえてはこなかったのです。少し前にフルトヴェングラーのミント盤から板起こししたというCDをご紹介した時に、最初から派手なスクラッチノイズが聞こえてきた時には、そんな大騒ぎするほど条件の良いものでもこんな状態なのだから、これがLPの宿命だと、再確認したものでした。しかし、このLPから聞こえてきたものは、CDと比較しても遜色のない静寂さ、しばらくして、普通はそのサーフェスノイズに隠れてしまうテープヒスまでが聞こえてきたのですから、驚いてしまいました。LPというフォーマットは、本気になって追求すれば、ここまでクオリティの高いものを作ることが出来るのですね。
肝心の音ですが、ここから聞こえてきたヴィントガッセンの若々しい歌声の再生は、CDではかなり高級な装置を使わなければ難しいのでは、と思わせられるほど滑らかなものでした。もちろん、ヴァルナイの張りのある声も完璧にその細部まで聞こえてきます。皮肉なことに、CDで気になったオーケストラの粗さが、ますます強調されて聞こえてきたのは、それだけ、このフォーマットが元の音を忠実に伝えているということの証でしょうか。ヴァルナイが歌う例の「ジークフリート牧歌」でも使われたテーマのソロの前の弦楽器の、なんとお粗末なことでしょう。
ただ、LPの最大の欠点であった「内周歪み」が、やはりこの素晴らしいプレスでも解消できていなかったのは、仕方がないことでしょう。かなり余裕を持ってカッティングされてはいるのですが、それでもカートリッジが内周に行くに従い、特にボーカルでの歪みが多くなり、生々しさが薄まっていくのが分かってしまいます。そして、それよりも重大なのが、経年変化です。まるで廃人のようになるというあれですね(それは「定年変化」)。そうではなく、添加剤などがしみ出して、音が悪くなるという現象です。新品の時にこれだけのものを聴かせてくれたものが、しばらく経ってどう変わるのか、それを確かめるのも、楽しみなような、怖いような。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-08-25 23:18 | オペラ | Comments(0)
HANDEL/Giulio Cesare in Egitto


Sarah Connolly, Angelika Kirchschlager(MS)
Danielle de Niese(Sop)
Patricia Bardon(Alt)
Rachid Ben Abdeslam, Christopher Dumaux(CT)
Christopher Maltman(Bar)
William Christie/
Orchestra of the Age of Enlightenment
OPUS ARTE/OA 0950 D(DVD)



「ジュリアス・シーザー」と言えばいいものを、「ジューリオ・チェーザレ」などとイタリア語読みで気取られてしまえば、「ヘンデルのイタリアオペラ=オペラ・セリア=長くて退屈」という一般常識の前には、とても見てみようという気になどならないことでしょう。ましてやDVD3枚組、ほとんど4時間になんなんとするものを開封するには、かなりの勇気が必要なはずです。こんな、いかにも暗~いジャケットですし。
しかし、昨年のグラインドボーンでこのオペラの演出を担当したデイヴィッド・マクヴィカーは、とても退屈などしていられない魅力満載のステージを作り上げてくれていました。時代設定はもちろんローマ時代ではありませんが、かといってガチガチの現代でもないという、ちょっと節操のないもの、しかし、そんなある意味「いい加減」なところが肩の力を抜かせるのでしょうか、くそ真面目なはずのこのオペラが見事にエンタテインメントとしての魅力を振りまいていたのです。
主人公のチェーザレが登場した時、その姿はまさに男そのものでした。「サラ」というファーストネームは女だけではなかったのかな、と思ったのも束の間、聞こえてきたのは張りのあるメゾソプラノだったではありませんか。どんなにメークを施しても女声歌手が男にみえることなどまずあり得ません。この間テレビで見た「ティート」でのカサロヴァあたりは、その最も醜悪な例でしょうか。音楽的には非の打ち所がなくても、あの「ディカプリオ崩れ」を見てしまっては興ざめもいいところです。しかし、サラ・コノリーはそんな小細工など必要ないほど、生まれながらに凛々しさを備えている「女性」でした。ヘンデルの時代のカストラートにはこのぐらいの凄さがあったのでは、と思わせられるほど、その完璧に「男」の歌手によって歌われたコロラトゥーラは、とてつもない魅力を放っていたのです。
舞台がクレオパトラの場面になると、トロメーオ(プトレマイオス)の、エキセントリックでぶっ飛んだキャラクターとともに、何ともポップな雰囲気が立ちこめます。そのクレオパトラ役の25歳の新人ダニエル・デ・ニースは、侍女2人を引き連れて、軽やかなダンスを踊りながら歌い始めたではありませんか。最近痛感される、それはまさに「歌って踊れる」オペラ歌手の姿です。この瞬間、グラインドボーンはウェストエンドに変わりました。このように、ローマ人サイドとエジプト人サイドでガラリとキャラクターを変えてしまうのが、マクヴィガーの演出プランだったのでしょう。しばらくすると家臣のニレーノも、いきなり踊り出して、聴衆の笑いを誘うことになるのです。もっとも、ここで笑いを取るのは、演出家にとっては本意ではなかったはずです。きっちり「ショー」として組み立てていたのに、それがお堅い「オペラファン」には通じなかったのですからね。
「ヘンデルって、こんなに良い曲書いたの?」と思えるほど、これでもか、これでもかと続く美しいダ・カーポ・アリアの洪水の中にも、お話は段々シリアスになって来ます。と、死んだはずのチェーザレが帰ってきたのを迎えたクレオパトラが、登場の時とよく似た感じの歌を、同じような振りで明るく歌い出しました。この頃にはもう笑い出すお客さんなどいませんし、終わればやんやの拍手喝采です。きちんと演出意図を受け止められるようになったお客さんのお陰で、ヘンデル、いや「ハンデル」は、250年後の同じ地で活躍するアンドリュー・ロイド・ウェッバーと全く変わらないヒットメーカーであったことが如実に証明されたのです。
そういえば、カーテンコールの時に劇の中で演奏されていた曲がもう1度演奏されていました。これなどはウェストエンド、そしてブロードウェイの常套手段ではないですか。もはやネットでは常識です(それは「ブロードバンド」)。
気の利いた日本語解説のお陰で、英語の字幕しかなくても物語はきちんと追いかけることが出来るはずです。実は、そんなものがなくても、画面からのエネルギーには圧倒されっぱなし、何度でも見たくなってしまいましたよ。ですから、日本語の字幕さえ入っていれば、というのはないものねだりです。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-07-21 19:57 | オペラ | Comments(4)
MOZART/La Clemenza di Tito

Pendatchanska, Im(Sop), Fink, Chappuis(MS)
Padmore(Ten), Foresti(Bas)
René Jacobs/
RIAS Kammerchor
Freiburger Barockorchester
HARMONIA MUNDI/HMC 801923.24(hybrid SACD)



モーツァルトの「最後のオペラ」と言われている「ティートの慈悲」、ケッヘル番号も621と、「魔笛」の620の後になっていますが、完成したのも初演されたのも、実はこちらの方が先なのです。「魔笛」を作っている最中に転がり込んだ急ぎの仕事を先に片づけた、という状況だったので、ケッヘルさんは着手した順番に番号を付けたのでしょうね。
そんなやっつけ仕事のせいでもないのでしょうが、このオペラは長いこと晩年の他の作品に比べるとほとんど「無視」されていたような状態でした。一つには、これが「オペラ・セリア」という、神様や王様を題材にした「まじめな」オペラだったことが災いしていたはずです。同じイタリアオペラでも「オペラ・ブッファ」である「フィガロ」や、ドイツ語の「ジンクシュピール」である「魔笛」に見られるおおらかな明るさを、人々はモーツァルトらしさとして求めていたのでしょう。
しかし、昨今の「モーツァルト騒ぎ」のおかげで、こんなマイナーだった作品にも光があたる時代がやってきました。このアルバムが出たのとほぼ同じタイミングで、マッケラス(DG)やスタインバーグ(RCA)の新録音の全曲盤CDもリリースされましたし、DVDも2種類ほど出るというのです。名曲を垂れ流しにしただけのつまらないコンピレーションの猛攻にはうんざりさせられますが、そんな盛り上がりに乗じてしっかりこのような隠れた名曲が紹介されるようになるのであれば、「250年祭」も大歓迎です。
さらに、ウェルザー・メスト指揮によるチューリヒ歌劇場のプロダクションを放送で見るなどという贅沢なことも。この時代の「オペラ・セリア」では女声の音域をカバーできる男声歌手が活躍していましたが、もちろん現代ではそんなものはありません。そこで、その役を女声が歌うことになってしまい、聴いただけでは男の役なのか女の役なのかが分かりづらくなってしまいます。そんな時に映像は本当に役に立ちます。それを見たおかげで、今までほとんど理解できなかったこのオペラの物語の内容が、しっかり頭に入り「何が何だか分からないよう」という状態から脱却できたのですからね。
ヤーコブスのモーツァルトといえば、少し前に「フィガロ」が大評判を取りました。あの時とはオーケストラもキャストも全く異なっているのに、あの時と全く同じ印象が、すでに序曲の段階で与えられたというのは、驚異的なことです。まるで自らも物語に参加しているかのようにオーケストラの各パートから雄弁さを引きだしてしまうヤーコブスの手腕には、改めて感服させられます。
この曲のレシタティーヴォは、「オペラ・セリア」としては、きちんと伴奏が作られたもの(「レシタティーヴォ・アッコンパニアート」)が極端に少なくなっています。そのために、先ほどの放送のように、全て地のセリフにしてしまっている演出もあるのですが、ここでは逆に、単純な「レシタティーヴォ・セッコ」から、とてつもなくファンタジーあふれる音楽を引き出して、それだけで豊かな盛り上がりを聞かせてくれています。対話の部分で相手の言葉を待つことなく素早く入るという緊張感は、ただのセリフ以上にリアリティが感じられます。もちろん、アリアの方でも目を見張るような華麗な装飾がてんこ盛り、ここまでやってもらえれば、この作品をつまらないなどと言う人はいなくなるはずです。名手ロレンツォ・コッポラがクラリネットやバセットホルンのオブリガートを演奏している9番(セスト)や23番(ヴィッテリア)のアリアも、とことん魅力的です。
ティート役のパドモアは、評価が分かれそうですが、力強さが決定的に欠けているという印象は免れません。セストのフィンクは、逆に余計な力を示しすぎでしょうか。最も印象の深かったのがセルヴィリア役のイムだったというのは、このあたりに「オリジナル歌唱」の理想の姿をつい見出したい先入観があるせいなのでしょうか。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-07-17 19:44 | オペラ | Comments(0)
ROSSIN/La Gazzetta




Cinzia Forte(Sop), Charles Workman(Ten)
Bruno Praticò, Pietro Spagnoli(Bar)
Maurizio Barbacini/
Intermezzo Choir
Orchestra Academy of the Gran Teatre del Liceu
OPUS ARTE/OA 0953 D(DVD)



バルセロナのリセウ大劇場で2005年7月に行われた公演のライブ、1年も経たないのにDVDになりました。ロッシーニの「ラ・ガゼッタ(新聞)」という非常に珍しいオペラ、もちろん、これが世界初のDVDです。年頃の娘を持つ商人ドン・ポンポーニオが、娘リゼッタの結婚相手を求める新聞広告(ガセネタ!)を出したのがそもそもの始まりとなるドタバタ喜劇、結局リゼッタは以前から恋仲だった宿屋の主人アルベルトとめでたく結ばれるというお話です。
リゼッタ役のチンツィア・フォルテについては、以前からマニアの間では密かに話題になっていたということです。実は、つい先日「カターニャ・ベッリーニ大劇場」というちょっとマイナーなオペラハウスの来日公演があったのですが、その「夢遊病の娘」という演目で主役を歌うために彼女も来日していたのです。しかし、この役はステファニア・ボンファデッリとのダブルキャスト、「ボンさま」が出演する東京公演はS席が29,000円だというのに、彼女の唯一の出番、横浜公演は23,000円という扱いでした。実際には、フォルテの方がずっと良かったという話も聞こえてきて、オペラの良さは歌手のランクや、それに伴う入場料の高さでは決して判断できないものだということが、改めて分かります。
指揮者のバルバチーニがピットに登場して、オペラが始まります。と、この曲は今まで聴いたことはなかったはずなのに、聞こえてきた序曲にはなにか馴染みのあるものが。そう、これは有名な「ラ・チェネレントラ(シンデレラ)」の序曲と全く同じものではありませんか。もちろんこれはロッシーニの常套手段、半年後に上演されることになる「チェネレントラ」に、この序曲を使い回ししたのです。
演出のダリオ・フォーは、舞台装置と衣装も担当しています。ジャケットでも少し窺えるように、そこで描かれた世界には、アール・デコのような世紀末の雰囲気が漂っています。このフォルテの脚線美(死語?)をご覧ください。彼女は惜しげもなくその足を高々と挙げて、居並ぶ紳士(死語?)を悩殺(死語?)してくれるのです。後半、トルコ人に変装という設定で現れる時には、おへそもあらわなビキニ姿、贅肉など殆どない悩ましい腰のくびれを十分に堪能させてくれますよ。今の時代、容姿も、そしてスタイルも良くなければ、オペラ歌手としては通用しなくなっていることが、よく分かります。というより、これはもはやショービジネスと同じ土俵に立って闘っているのだな、という印象すら受けてしまいます。この演出では、多くのダンサーが出演して、華やかな場面を描き出しているのですが、歌手たちもそのダンサーと一緒になって、踊りながら歌わなければならない場面というのが数多く用意されているのです。こうなると、ほとんど「ミュージカル」の世界です。芝居が出来るだけではダメ、きっちり踊れて歌える人でなければステージはつとまらないというミュージカルで求められる資質が、オペラに於いても要求されるようになっているのです。
もちろん、これは男声にも当てはまることです。第2幕の決闘の場面でのプラティコ、スパニョーリ、ワークマンの男3人のやりとりの中では、爆弾をジャグリングしながら歌わなければならないというところがあります。ロッシーニならではの早口言葉の歌を歌うだけでも大変なのに、まるで大道芸人のようなジャグリング、聴いている方もスリル満点です。
フォルテは、見た目だけではなく、歌も評判通りのものでした。周りを威圧するというのではなく、精度の高いコロラトゥーラでチャーミングに迫る、といった魅力に溢れています。これには「紳士」ならずとも虜になることでしょう。他の歌手も大健闘でした。ただ、リセウのオーケストラにもう少し軽やかさがあれば、もっと素敵なロッシーニになっていたことでしょう。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-07-08 20:02 | オペラ | Comments(0)
RAMEAU/Les Paladins




T.Lehtipuu, F.Piolino(Ten)
S.d'Oustrac, S.Piau(Sop)
L.Naouri, R.Schirrer(Bar)
William Christie/
Les Arts Florissants Orchestra & Chorus
OPUS ARTE/OA 0938 D(DVD)



ラモーの「レ・パラダン」というオペラ、「遍歴騎士」という邦題が付いていますが、原題は複数形ですので、正確には「遍歴騎士たち」ということになるのでしょうか。アンセルムという年寄りの貴族によって城に幽閉されているアルジという娘が(ご想像の通り、この年寄りは娘と結婚しようと思っています)、昔から恋いこがれていた「遍歴騎士」であるアティスとその仲間によって救い出され、2人の愛は成就するというお話です。30曲以上あるというラモーのオペラの、これは最後から2番目の作品、もちろん、今までほとんど知られることはありませんでしたが、フランス・バロックの大家ウィリアム・クリスティの手によって、見事に蘇りました。
しかし、その蘇り方は、単に今まで知られていなかったオペラが日の目を見たなどという生やさしいものではありませんでした。2004年にパリのシャトレ座と、ロンドンのバービカンセンターとの共同制作によって「蘇演」されたこのオペラは、ジョゼ・モンタルヴォの演出と振り付けによって、「オペラ」という枠をも超えた破天荒な舞台作品として、その姿をあらわしたのです。
ステージ上には2段(3段?)となった大きなスクリーンがセットされています。そこに映し出されるのが、実際のキャストの画像を元にCG処理されたもの、それが非常にリアリティにあふれているものですから、DVDで見たぐらいでは実物の歌手やダンサーとの区別はほとんど付かないほどです。出演者は、そのスクリーンのスリットから出入りするのですが、その「スリットから出入り」するという映像までもがきちんと作り込んであるので、なおさらその区別は困難になってきます。そんな混沌とした非現実の映像と、実体のあるステージ上の人間とが一体となって繰り広げる目の回るような世界は、とことんファッショナブルでスピード感あふれるもの、一度見始めたら最後まで目を離すことは許されないという、まるで「ジェットコースター」のような刺激的な体験が味わえることになります。
そもそも、DVDのメニューに現れるのが、このステージの「地下鉄」のイメージであることからも分かるとおり、これはもろ現代の設定に置き換えられたプランにのっとっています。ラモー時代のファッションは、とりあえずCGの映像で十分に味わってもらうことにして、生身のダンサーたちにはストリートダンスによってほとんどヒップ・ホップのようなテイストをふんだんに撒き散らしてくれています。「フランス・バロックとヒップ・ホップ!」などと目くじらを立てるかも知れませんが、これが実にスッキリと様になっているのには、正直驚かされます。第3幕の「ガヴォット」で見せてくれたロボットのような動きの振りには、観客も大喜び、盛大な拍手が巻き起こっていました。
日本版の「タスキ」には、「18才未満への販売・貸出禁止」と書いてあります。そもそもCGには大量の男女のヌードが登場して場面転換の幕を引く、というシーンが頻繁に使われていますし、その様なある意味「エロ」の趣味が、おおらかな「愛」の記号としてふんだんに盛り込まれているのです。最後のシーンではついに4人のダンサーがオールヌードで登場するという「サービス・カット」まで現れ、男性も「1本」、女性も「3叢」しっかり見せてくれます。こんな美しい女性の叢(くさむら)には、やはり観客も「大喜び」のことでしょう。何たって作曲した人が裸毛(ラモー)ですからね。

歌手たちも、そして合唱のメンバーまでも、しっかりダンスをマスターしているのには驚かされます。最近出た他のDVD(これも近々アップします)でも感じたのですが、もはやダンスはオペラ歌手の必須アイテムとなってしまったようですね。アティス役のレーティプーなどは、全く遜色のない踊り、アルジ役のドゥストラックも、可憐さよりは力強さを感じてしまうのは、「鬼嫁」の観月ありさによく似たマスクのせいでしょうか。
このプロダクション、今年の11月にはほぼ同じメンバーで来日するそうです。このエネルギーあふれるステージ、ぜひ「生」で体験したいものですね。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-07-05 20:33 | オペラ | Comments(0)
MUSSORGSKY/Boris Godunov(excerpts)



George London(Bas)
Thomas Schippers/
Columbia Symphony Orchestra & Chorus
SONY/82876-78747-2



「おやぢ」を始めてから何年も経たないというのに、その間だけでもレコード業界は大きくその版図を変貌させてきました。当初からリストを作るためのレーベル名の表記などは出来るだけ元からのものを使うようにしてきたのですが、ここに来て「SONY BMG」がしっかり一つの企業だとの認識が高まってくると、このままの表記でよいのかどうか、迷わざるを得なくなってしまいます。「BMG」こそまだ「レーベル」とは認識されてはいませんが、「SONY」はれっきとしたレーベル名、しかし、それはもともと「COLUMBIA」と呼ばれていたものなのですから、こんな昔の復刻盤などが出てくると、レーベルは「COLUMBIA」と表記した方が良いような気になってきます。今はまだ「SONY CLASSICAL」という概念だけは健在のようですが、それが使われなくなり、「SONY BMGレーベル」などというものが出現した時こそが、一つの文化がビジネスによって殺された時となるのでしょう。現に、他の巨大レコード産業「WARNER」や「UNIVERSAL」に於いては、ほとんどそれに等しい事が行われたか、あるいは行われようとしているのですから。
そんな、COLUMBIAが、今では同じ企業体になってしまったかつての競争会社RCA(と言うより、VICTORでしょうか)と互いにしのぎを削っていたという「懐かしい」時代の録音が、オリジナルジャケットを前面に出した形で何種類か再発されました。その中で、これは、「ボリス」のハイライトという体裁ですが、ほとんどタイトルロールを歌っているジョージ・ロンドンのソロアルバムのような印象を与えられる物です。
1920年(1919年、あるいは1921年という説も)に生まれたアメリカのバス歌手ジョージ・ロンドンは、今では少なくとも日本のネット上では全く忘れられた存在となっています。すでに1985年には亡くなっていますし、「声帯麻痺」という病気のために1960年代の後半には歌手を引退していたということですから、それも無理のない事なのでしょう。
しかし、彼には「最初にザルツブルクでモーツァルトを歌ったアメリカ人」、「最初にバイロイトに出演したアメリカ人」、そして、「最初にボリショイ劇場で歌ったアメリカ人」という輝かしい経歴が残されています。そして、そのボリショイ劇場で歌った役こそが、この「ボリス・ゴドゥノフ」だったのです。それは、1960年9月のこと、このCDはその「偉業」の半年後、1961年3月にニューヨークで録音されたものです。オーケストラと合唱は「コロムビア交響楽団・合唱団」という覆面団体(ニューヨーク・フィルあたりでしょうか)、そして、指揮者が1977年に47歳の若さで亡くなったアメリカの指揮者、トーマス・シッパーズです。閉め忘れにはご注意を(それは「ジッパー」)。演奏と録音は、いかにもこのレーベルらしいメリハリのきいたものです(プロデューサーはあのジョン・マクルーア)。シッパーズの指揮は非常に分かりやすい表現に終始、リムスキー=コルサコフ版のオーケストレーションと相まって、スペクタクルなサウンドが充満しています。そんな中で、ロンドンは堂々とした声で圧倒的な存在感を示してくれていました。それとともに、とても細やかな感情表現も伴わせるという、深みのあるところも見せてくれています。
元はLP1枚分、40分にも満たないものですから、CDでは余白にオーマンディとフィラデルフィア管弦楽団の「展覧会の絵」が入っています。その「プロムナード」が聞こえてきた時、はたと、これは「ボリス」のプロローグの合唱にそっくりな事に気づきました。
この録音が弾みになったのでしょうか、1963年5月にはモスクワで、ロンドン以外は全てボリショイ劇場のキャストという全曲録音をこのレーベルが敢行します。あの「冷戦」時代にそんな事を可能にしたロンドンの人気と実力が、このことでもうかがい知る事が出来るはずです。こちらでも、「本場」のメンバーに一歩も引けを取らないロンドンの存在感が確認できます。

   SONY/S3K 52571
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-06-30 21:11 | オペラ | Comments(0)
WAGNER/Die Walküre


Astrid Varnay, Gré Bouwenstijn(Sop)
Ramón Vinay(Ten), Hans Hotter(Bas)
Joseph Keilberth/
Orchester der Bayreuther Festspiele
TESTAMENT/SBT4 1391



ヴァーグナーの「指環」のステレオによる全曲録音といえば、ジョン・カルショーが1958年から1965年にかけてスタジオで行ったものが、「世界初」とされています。しかし、そのカルショー自身もその著書「Ring Resounding」の中で述べているように、これに先だつ1955年に、すでにそのカルショーのレコード会社DECCAが、バイロイト音楽祭の「指環」全曲をステレオでライブ録音していたのです。その時に、この生まれて間もないテクノロジー「ステレオ」の技術担当として、実際にその録音に立ち会ったのが、後に「チーム・カルショー」の一員となるゴードン・パリー、彼がバイロイトで得たノウハウが、後のスタジオ録音の際に大きく寄与している、というのが、カルショーがその著書の中でこの録音に関して触れた記述です。その前の「その録音の商業的発表を妨げるさまざまな契約と直面(黒田恭一訳)」という述懐こそが、まさにこのCDが50年の歳月を経て初めて世に出た録音である事を裏付けるものなのです。
そんな貴重な「お宝」、先日の「ジークフリート」に続いての、「ヴァルキューレ」の登場です。他の2作も順次リリース、今年中には「世界初」のステレオ録音による「指環」が全てCDで揃う事になります。
定評のあるTESTAMENTのマスタリング、そしてもちろん、当時最先端を誇っていたDECCAの録音技術は、この50年前の録音から、信じられないほど生々しい音を届けてくれました。弦楽器の音はあくまで艶やか、もちろん第1ヴァイオリンが上手から聞こえてくるというバイロイト独自のシーティングが、きっちりとした音場となって伝わってきます。管楽器も目の覚めるようなクリアな録られ方、ソロ楽器もはっきりと聞こえます。そして何にも増して素晴らしいのが、ステージ上の歌手の声です。制約の多いライブ録音で、これほど多くのソリストがしっかり「オン」で捉えられているのは、殆ど奇跡に近いものがあります。第3幕の冒頭の、ヴァルキューレたちがお互いを呼び交わす場面など、とてつもないリアリティに溢れています。これで50年前の録音!
そんな素晴らしい録音で、「凄さ」を存分に味わえるのが、ブリュンヒルデ役のアストリッド・ヴァルナイです(そういえば、これはCDだけではなく、ヴァイナル盤も発売されるとか)。第3幕半ばでのヴォータンに対するモノローグの鬼気迫る歌唱には、圧倒されてしまいます。よく響く低音を生かして、完璧に自分の歌として歌わない限り決して生まれないような独特のルバートを交えて奏でられるこの「アリア」は、まさにライブ録音ならではの格段の魅力を持つ事になりました。しかし、それに対するヴォータンのハンス・ホッターは、この10年後にカルショーのセッションに臨む時には、もはやコントロールのきかないビブラートでボロボロになってしまう予兆を感じさせる、うわずった音程が気になってしょうがありません。
カイルベルト指揮のこの劇場のオーケストラは、この録音がまさに「記録」としての価値を持つ事をまざまざと見せつけてくれるものでした。これによって私達は、半世紀前の「ヴァーグナーのメッカ」ではどのような演奏がなされていたかを、まさに今録音されたばかりのようなみずみずしい音によって、手に取るように知る事になるのです。指揮者の趣味もあるのでしょうが、それは煽り立てるエネルギーは有り余るほどあるくせに、繊細さが決定的に欠けているという、「無骨」などという形容詞すら褒めすぎかも知れないと思えるほどのものでした。金管楽器の乱暴なまでの力強さがそれに花を添えます。「ヴァルハラのテーマ」を吹くヴァーグナーチューバほどのおおらかさはありませんが、その音程のアバウトさには、つい微笑みを誘われてしまいます。
カルショーが彼の「指環」を制作した時には、バイロイトが反面教師になったと、先ほどの著書では述べられています。それはもちろんヴィーラント・ヴァーグナーの演出に対するコメントなのですが、もしかしたらその中にはこんなオーケストラの印象も含まれていたのでは、と想像してしまうほど、それは醜いものでした。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-06-14 20:09 | オペラ | Comments(0)
MOZART/Die Zauberflöte
D.Röschmann, E.Miklósa(Sop)
C.Strehl(Ten), H.Müller-Brachmann(Bar)
Claudio Abbado/
Arnold Schönberg Chor, Mahler Chamber Orchestra
DG/00289 477 5789(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック/UCCG-1298/9(国内盤 5月24日発売予定)


ごく最近までNHKからかたくなに「アッバード」と殴られ続けていた(それは「アッパーカット」)「アバド」の「魔笛」です。モーツァルトの他のオペラはさんざん上演してきたアバドですが、なぜか「魔笛」に関しては慎重な態度をとり続けていて、何と、これが彼の最初の録音だということです。待たされた甲斐があったと言うべきなのでしょうか。
一部で「セッション録音」などという情報が流れていましたが、これはモデナのテアトロ・コムナーレに於ける、息子ダニエレ・アバドの演出によるプロダクションのライブ録音です。滑稽なセリフを受けて観客が笑い声を立てる生々しい情景がそのまま収録されていますし、なによりも一番最後には盛大なブラヴォーと拍手が入っているのですから、まちがいはありません。ただ、頻繁に音のバランスやまわりの雰囲気が変わるのがよく分かりますから、リハーサルなどのテイクも合わせて、かなり大胆に(と言うか、無神経に)編集しているのでしょう。
こんなやり方、今ではオペラのCDを作る時の手順としてすっかり定着してしまった感があります。もはやきちんとセッションを組んで精度の高い演奏を提供するというのはコスト的に不可能になってしまっているのは分かりますが、この、せっかくのアバドの「魔笛」の初物ぐらいは、せめてもう少していねいな作り方が出来なかったのか、という気がしてなりません。というのも、この演奏を少し聴いただけで、アバドがこの曲に寄せる思いには、とてつもなく深いものがあることを感じずにはいられないからなのです。これはまさに、オリジナル楽器の演奏家達のアプローチも視野に入れて、今まで彼が暖めていたアイディアが全てこの中に盛り込まれたのではないかと思える程のプロダクションなのですが、いかんせん、ライブ特有の歯がゆいまでの不完全さが、とてももどかしく感じられてしまうのです。「本当はこうやりたいのだろうな」と考えながら聴き続けるのは、かなり辛いものがありました。
具体的には、ソリスト達とアバドとのグルーヴの違いです。指揮者の求めているものは余計なものは極力そぎ落としたスマートなテンポ感。しかし、タミーノ役のシュトレールあたりは、それとは全く無関係なノリで全体をぶちこわしているのです。これなどは、セッションできちんとリハーサルをして注意深く録音を行えば、もう少し寄り添ったものが出来上がっていたことでしょう。
ですから、そんな中で指揮者の思いを完璧に受け止めたレシュマンの存在によって、この録音はあたかもパミーナが主役であるかのような、当初求めたものとは微妙に異なる形での完成度を見せつけることになりました。彼女は音楽的な面だけではなく、セリフだけで展開される「芝居」の部分でも、驚くべき存在感を主張しています。同様な存在感は、パパゲーノ役のミューラー・ブラッハマンにも見られます。全てのキャストがこの2人程の成熟度を見せていたら、このアバドの「魔笛」はとてつもない世界観を私達に届けてくれたことでしょう。
その一例として垣間見られるのが、この2人によるデュエット(第1幕フィナーレ直前の「第7番」/CD1Track12)のイントロで、クラリネットとホルンによるアコードをまるまる1小節分カットしたという「勇気」です。そもそもこのアコードは自筆稿には書かれてはいなかったもので、その扱いに関してはさまざまな説が主張されていましたが、これも一つの解決策、もちろん、それを実際の演奏で用いたのは、私の知る限りこのアバドのものが最初のはずです。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-04-19 19:59 | オペラ | Comments(2)