おやぢの部屋2
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カテゴリ:合唱( 689 )
BACH/St Matthew Passion
Van der Meel, Schöfer(Ten)
Nolte, Chun, Müller-Brachmann(Bas)
Couwenbergh(Sop), Kielland(Alt)
Helmut Müller-Brühl/
Dresden Chamber Choir
Cologne Cathedral Boy's Choir
Cologne Chamber Orchestra
NAXOS/8.557617-9



「ダ・ヴィンチ・コード」の映画がいよいよ公開されますね。この世界的なベストセラーの原作の中に盛り込まれた新しいキリスト教の姿も、今まで以上に大きな話題となっていくことでしょう。もちろん、これはこのアクション小説(そう、これは決して「ミステリー」などではありません)を彩る単なる飾りであって、物語の本質とはそれほど強い関わり合いがあるわけではないのですが、センセーショナルな報道攻勢の前には、そんな正論の声は弱まりがちになります。
しかし、いかに「飾り」とは言っても、これだけの露出を誇る書物の中で扱われれば、そんな、「今まで誰も知らなかった」とされるトリビアに興味を惹かれる人は多くなってくることでしょう。しかも、その内容が非常に面白いとくれば、それだけで今までキリスト教などにはなんの関心もなかった人にまで、この「人間的」な「真実」は受け入れられていくに違いありません。
バッハが「マタイ」を作った時には、聖書の中身を疑うような不埒なことがあったはずもありませんから、もちろんこの曲の中には長いこと受け継がれてきた物語が息づいています。しかし、今、様々な見方があることを知ってしまった私達がこの曲を聴いたり、あるいは演奏する時に、バッハの時代とは少し異なったスタンスを取りたくなってくることだったら、もしかしたらあるのかも知れませんね。
2005年5月という、恐らく現時点では最も新しい録音のこの「マタイ」には、ひょっとしたらそんな考えが反映されているのではないか、などと根拠のない憶測を働かせてしまうほど、この演奏は爽やかな風を運んでくれるものでした。それを象徴しているのが、イエス役のノルテの「軽さ」でしょうか。いかにも犯しがたい存在のように、重く深刻な歌い方をする人の多い中で、この人は実にはかなげなイエスを演じてくれています。これだったら、マグダラのマリアとも温かい家庭を築けるのでは、という感慨もわいてこようというほどの、それは庶民的に感じられるイエスです。
もう一人のバス歌手、ミューラー・ブラッハマンのアリア「Komm süßes Kreuz」でのオブリガートにも、深刻なヴィオラ・ダ・ガンバではなく、ほどよい軽さを持ったリュートが使われているのが、非常に印象的です。ガンバだとどうしても「頑張らなくっちゃ」って気になりますものね。エヴァンゲリストのファン・デア・メールも、やはり深刻な表現とは無縁。直球勝負の潔さが光ります。
女声は、ちょっと力不足でしょうか。ソプラノのコウヴェンベルクの声は、いくらなんでも軽すぎ、ちょっと大きなアリアではテンションが持続していません。アルトのシエランは、声には深いものがありますが、ちょっと表現がワンパターンなのが耳に付きます。
しかし、なによりも、合唱がとても素晴らしいために、そんな傷は殆ど気にはなりません。ハンス・クリストフ・ラーデマンの下振りによるドレスデン室内合唱団という、あの数々の合唱の名盤で知られるCARUSレーベルにも登場している団体は、信じがたいほどよく溶け合った響きを駆使して、ある種手垢だらけのこの曲の姿を、それこそ修復されたダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のようなすがすがしいものに変えてくれました。大詰めの「Wir setzen uns」が異様なほど速いテンポであっさり歌われたとしても、彼らの完璧なハーモニーの積み重ねが繰りかえされれば、それは重苦しさとは別の、軽いけれどもしっかり深みは伴っているという、スマートな感動を与えてくれるのです。
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by jurassic_oyaji | 2006-05-15 20:23 | 合唱 | Comments(0)
VAUGHAN WILLIAMS/Mass in G Minor etc.





Norman Mackenzie/
Atlanta Symphony Orchestra Chamber Chorus
TELARC/CD 80654



1970年にロバート・ショウが作ったアトランタ交響楽団合唱団は、ショウの指揮の下、多くの録音をTELARCなどに残していました。1999年に彼が亡くなってからは、その去就が注目されていたのですが、その後にリリースされた、例えば「カルミナ・ブラーナ」とか「モーツァルトのレクイエム」では、ノーマン・マッケンジーという人が合唱指揮者としてクレジットされていましたから、恐らくこの人がショウの後を継いだのでしょう。バナナが好きなんですね(それは「チンパンジー」)。今回初めて、そのマッケンジーの指揮によるア・カペラのアルバムがリリースされました。果たして、このコンビはショウ時代の遺産を受け継ぐことは出来ているのでしょうか。
正確には、今回の合唱団は「アトランタ交響楽団『室内』合唱団」というクレジットになっています。『室内』が付かない合唱団は、200人規模の大編成で大きなオーケストラと共演する時のものなのですが、その中から40人からせいぜい60人程度までの編成になったものが、この「室内合唱団」と呼ばれる団体なのだそうです。あくまで比較の問題、確かに200人に比べれば60人でも「小編成」にはなりますね。
曲目はタリスからタヴナーまで多岐にわたっていますが、私にはヴォーン・ウィリアムスの「ミサ曲ト短調」が入っているのが、注目されます。古風な佇まいを持つポリフォニーの世界と、フランス風の響きさえ感じられるホモフォニーの世界が何の違和感もなく調和した非常にハイセンスな作品、そこにはどんな人をも魅了する簡素な音楽のエッセンスがふんだんに盛り込まれています。私にとって初めてこの曲と出会ったのがこのNIMBUS盤。その、全く無理のない発声から生まれる自然な流れは、この曲の魅力を最大限に発揮したものとして、私の愛聴盤となっています。

   NI 5083
この、慣れ親しんだ曲を、マッケンジーたちが全く別の側面からのアプローチで聴かせてくれた時には、ある種のとまどいを禁じ得ませんでした。そこからは、先ほどのイギリスの聖歌隊が持っていた素朴なまでの純粋な響きは殆ど聴き取ることは出来ず、高度なテクニックを駆使しての、力任せの強引さしか感じられなかったのです。確かに各々のメンバーの技術がかなり高いものであることは、そのメンバーがソロを務めている場面で嫌と言うほど感じることは出来ますが、それが全体として響きが溶け合って、一つの方向にまとまったメッセージを発するということが、まるで伝わってこないのです。フレーズの最後が、何の余韻も感じられない即物的なものであるのも、物足りません。これは、最初に収録されているメシアンの「おお、聖餐よ」で、悲しいほどに実感できてしまいます。各パートの音は、他のパートと溶け合うことは決して無く、メシアンが築き上げた宝石のような和声はついぞ姿を見せることはありませんでした。デュリュフレの「4つのグレゴリアン・モテット」も、この曲がどれほどの繊細な取り扱いを必要とされているかが如実に分かってしまう演奏だ、としか言いようがありません。
従って、彼らの資質は、エーロン・コープランドの「4つのモテット」という、リズミカルな処理が要求される曲で、最大限に発揮されることになります。ここで聴かれる統制のとれた生き生きとした音楽こそが、彼らの最大の魅力なのでしょう。
このレーベルの合唱に対する録音のポリシーには失望されることが多かったものですが、ここでもそのひどさは際立っています。いたずらにホールトーンだけを拾って、声の持つ「芯」が完璧に抜けているこの劣悪な録音によって、この合唱団の欠点はさらに助長されることになりました。
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by jurassic_oyaji | 2006-05-08 20:03 | 合唱 | Comments(0)
MOZART, PFLÜGER/Requiem
Michael Nagy(Bas)
Dieter Kurz/
Württembergischer Kammerchor
Chor der Staatlichen Hochschule für
Musik und Darstellende Kunst Stuttgart
Württembergische Philharmonie Reutigen
CADENZA/CAD 800 855(Hybrid SACD)



このアルバムは、1944年にスウェーデンで生まれ、1950年から南ドイツ、シュトゥットガルトの近郊ビーティヒハイムに移り住んだ作曲家、ハンス・ゲオルク・プフリューガーが1999年に亡くなってから5年経ったことを記念して、その命日の2004年3月9日にビーティヒハイムの聖ローレンス教会で行われた彼自身のレクイエムの演奏会の模様が収録されたものです。
その演奏会では、それに先だってモーツァルトのレクイエムが演奏されました。これは、プフリューガーがこの曲を作る際に、この名曲について友人と真剣にディスカッションをした、ということも考慮してのことなのでしょう。しかし、それだけではなく、ここでは敢えて曲の本来演奏される順番を崩して、作曲された順番に演奏されているということが、暗示的な意味を持ちます。つまり、「Kyrie」のあとには「Offetorium」である「Domine Jesus」と「Hostias」が続き、そのあとに「Dies irae」から始まる「Sequenz」が演奏されて、絶筆となった「Lacrimosa」の8小節目で打ち切るということを行っているのです。それにすぐ続けて、この新しいレクイエムを演奏するということはどういう意味を持つのか、想像に難くはありません。素麺も固くはありません。
ちなみに、このモーツァルトのレクイエムは、オーケストレーションは後にジュスマイヤーが行ったものをそのまま使っています。かつてシュペリングが録音していたように、本当にモーツァルトが作った部分だけを演奏するというような方法をとっていれば、その意図はより伝わったのでしょうが、実際の演奏会としてはこの折衷案をとる方が現実的なのでしょう。
その、プフリューガーの「Memento mori 1995 Ein Requiem für tiefe Stimme, Chor und Orchester」というタイトルを持つレクイエムは、彼の住むビーティヒハイム市、および、そこの教区牧師であった友人のヨーゼフ・ディーマーの委嘱によって1995年に作られました。タイトルにもあるように、ここで活躍するのは「深い声」です。もちろん、これはバスやバリトンの歌手を示すわけですが、その「深い」というファクターを求められるソロパートは、音域以外のキャラクターが重要になってくることでしょう。というのも、ここで彼が担当する音楽は、最近ではとみに馴染みのなくなった「無調」のテイストがふんだんに盛り込まれたものだからなのです。打楽器やチェレスタなどを多用した、まるで映画音楽のようなオーケストラの中で聞こえてくるその「深い」ソロは、まさに人間の不安な気持ちをかき立てるにはうってつけのものとして、迫ってきます。それは、本来の典礼文の中に挿入された、27歳という若さで悲劇的な死を遂げたドイツの詩人ゲオルク・トラークルの詩をテキストとして使っている部分で効果的に発揮されています。
ただ、全体としては例えば「Dies irae」や「Sanctus」で見られるかなり楽天的な合唱の処理などによって、「聴きやすい」ものに仕上がっているのは事実です。不安なままでは終わらない、もっと音楽的な悦びに通じるものが、作品の根底に流れていることを感じないわけにはいきません。あれほど暗かった「深い声」が、最後の「Lux aeterna」では、ニ長調の第3音Fisを、まるで何かから吹っ切れたように朗々と歌い上げるのを聴けば、その印象はさらに強まるのです。
ニ短調のモーツァルトのレクイエムから始まったものを、明るいニ長調で終わらせる。これが何を意味しているのかは明白です。
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by jurassic_oyaji | 2006-05-03 22:58 | 合唱 | Comments(0)
In Love...




Peter Dijkstra/
The Gents
CHANNEL/CCS SA 23306(hybrid SACD)



オランダの男声アンサンブル「ジェンツ」の最新アルバムです。彼らは昨年の4月に初来日、各地でコンサートを行いましたが、今年の10月にも再来日が予定されているそうです。もはや、彼らのハーモニーはしっかり合唱ファンの心をつかんでしまったようですね。
その初来日のコンサートの模様が、先日テレビで放送されていました。前半は譜面台を腰のあたりに同じ高さで水平にセットして、その上に楽譜を置いて歌うというスタイルで演奏していました。そのステージでは、シューベルトやプーランクが演奏されていましたが、それは以前ご紹介したデュリュフレのアルバムで感じたのと同じ印象を与えられるものでした。音色は柔らかく、ハーモニーはこの上なく美しいのですが、何かを訴えようとする「力」が決定的に欠けているのです。
ところが、後半のステージで、譜面台を取り払って全員暗譜で歌うようになった時には、そんな事は全く感じられない生き生きとした音楽が伝わってきました。曲目はイギリス民謡を編曲した軽いものだったのですが、そこからは無条件にその美しいハーモニーに浸りきれるだけの魅力が、存分に伝わってきたのです。恐らく、このグループの資質は、このような場面で最も無理なく発揮されるのではないか、とその時感じたものでした。
今回のアルバムには、そんな、聴衆を沸かせるのに最も成功した曲が集められています。ある意味、これからの彼らの方向性を占うような内容になっているのかも知れません。その番組の中でも歌われていたイギリス民謡は、まさに超一流のエンタテインメントとしての完成された形を持っているものでした。中でも、「ロンドンデリーの歌(ダニー・ボーイ)」あたりは、指揮者のダイクストラが1コーラス目が終わるやいなや、やおらスーツの前ボタンをしめて後ろ(つまり、客席の方向)に向き直ってソロを歌い出す、というシーンが大受けでしたので、この場面を実際に体験しているファンにはこたえられない事でしょう。彼の柔らかなバリトンも、とことん魅力的です。
編曲者の顔ぶれを見てみると、ダリル・ランズウィック、ゴードン・ラングフォード、そしてボブ・チルコットと、かつて「キングズ・シンガーズ」にスコアを提供した面々が名前を連ねているのが目を引きます(チルコットなどは、元メンバー)。その「元ネタ」のいくつかは1986年に録音された日本制作盤のビートルズ・アルバム(ビクターエンタテインメントVICP-61267)で聴く事が出来ますが、彼らがこの6人組のイギリスのアンサンブルに敬意を払いつつ、さらなる高みに達しているのがよく分かります。

確かに、男声合唱とは言ってもカウンター・テナーを含む「ジェンツ」の編成は、キングズ・シンガーズをそのまま拡大したもの、恐らく目指しているところには多くの共通点がある事でしょう。実は、先ほどのコンサートでの譜面台の置き方で、まず彼らの事が連想されたのでした。そういう意味で、「ジェンツ」の将来の姿も自ずと浮かんでしまう、と思えるのも無理はないのでは。そのうちには、日本公演でのアンコール曲、八代亜紀の「舟歌」なども、アルバムに入れてくれる事でしょう。
ライナーを読んで気が付いたのですが、彼らは「プロ」の演奏家ではなく、他に仕事を持っている人たちが集まっているのだそうですね。ロースクールの学生とか、ホテルの支配人、中には教会の司祭のように、子細を明かせないような人まで。本当に歌う事が好きな人たちが醸し出すハーモニー、しかし、そこには自ずと限界も存在するのだという現実も、認識しないわけにはいきません。
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by jurassic_oyaji | 2006-04-25 19:52 | 合唱 | Comments(0)
RUTTER/The Choral Collection



John Rutter/
The Cambridge Singers
The City of London Sinfonia
UCJ/476 3068



昨年はイギリスの作曲家ジョン・ラッターが60歳の誕生日を迎えたという事で、イギリスではラジオの番組が作られたり音楽雑誌で特集を組まれたりと、何かと注目を集めていたようです。日本では合唱関係者の間でこそ知られてはいますが、一般的な知名度はそんなにあるとは思えないラッター、さすが本国ではかなりの人気を誇っているようですね。その雑誌でも紹介されていたこのアルバムもそんな「還暦記念」のアイテムだったのでしょう、もちろんイギリスでは昨年の内にリリースされていましたが、日本ではやっとこの頃店頭に出回るようになりました。
UCJ」と言うのはちょっと見慣れないレーベルです。どこかの銀行が出資して立ち上げたものなのでしょうか(それは「UFJ」)。そうではなく、これは「Universal Classics & Jazz」の略語、今までもUNIVERSALの中のクラシックやジャズのレーベルを総称してその様な言い方をしていたのですが、それをレーベル名に「格上げ」したという事なのでしょうか。いずれにしても、今まではCOLLEGIUMというマイナー・レーベルでしか入手できなかったラッターの自作自演が、このようなメジャーなところからリリースされるのは、ちょっとした事件ではないでしょうか。まさに「メジャー・デビュー」といったところでしょうか。先ほどの雑誌でも「ラッターの音楽が、UNIVERSALから発売」と、大いに期待を持たせる書き方をしていましたし。もちろん、これはシャルロット・チャーチやキャサリン・ジェンキンスが彼のナンバーを取り上げてヒットを放った、というのとは全く別の次元の出来事です。
と、このアルバムのことを知った時は思いました。そして、実際に現物を手にして、今まで録音されていた曲だけではなく、「世界初録音」のものまであると知って、「やった」と思った程です。ところが、封を切って中のブックレットを開けてみた途端、その様な喜びは失望へと変わりました。ここに収録されているものは、「世界初録音」という「The Gift of Music」を除いて、すべて今までCOLLEGIUMから出ていた音源を集めただけのもの、つまり、これは単なるコンピレーション・アルバムだったのです。言ってみれば、BRILLIANTMEMBRANのようなもの、ただ、あちらはライセンス先のレーベルがジャケットにきちんと表示されていますが、この場合はジャケットを見ただけではCOLLEGIUMの音源が使われている事は全く分かりません。
これは、私の勘違いだったのでしょうか。いいえ、例えばこちらの通販サイトに掲載されているインフォメーション(ほぼ同じものが他の場所でも見られますから、これは輸入業者が書いたものなのでしょう)には、しっかり「今回は、ユニバーサルUKへのレコーディングです」と明記されていますよ。それだけではなく、販売店の店頭でも「新録音」というコメントが、堂々と製品の前に掲げられているのです。これを読めば、誰でも、今回のアルバムは今までのCOLLEGIUMのものとは別に、新たにUNIVERSALのために録音を行ったものだ、と思うはずではないでしょうか。もちろん、そうではない事はブックレットを読めば分かる事なのですから、これは輸入業者の単なる事実誤認(しかし、扱っている商品に対する知識の欠如がこれほどのものとは、驚くほかはありません)なのですが、結果的には殆ど「詐欺」といっても差し支えない程の社会的な過ちを犯した事にはなりませんか?
それは、日本サイドの問題、しかし、ジャケットにコンピレーションとだけ書いてコレギウムのコの字も(もちろん、英語で、ですが)入れなかったUKUCJの姿勢も、決して公正なものとは言えません。このアルバムのために「特別に(ラッター)」作ったとされる新曲にしても、権利はUNIVERSALではなくCOLLEGIUMに属しているのですから。今までの仕事をUNIVERSALという大舞台で披露できる喜びを無邪気に綴ったラッター自身によるライナーノーツの精神を生かすことが出来なかったこのメジャー・レーベルへの信頼は、地に落ちました。「おお、わりい、わりいO Waly Waly=Track16」と謝って済むものではありません。
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by jurassic_oyaji | 2006-04-15 20:04 | 合唱 | Comments(2)
KODÁLY/Choral Works for Male Voices




Tamás Lakner/
Béla Bartók Male Choir-Pécs
HUNGAROTON/HCD 32322



ハンガリーの南部にペーチュという古都があります。ワインの産地としても知られるこの街は、毎年9月の末に「European Convivial Wine Song Festival」という音楽祭が開催されている事でも知られています。このタイトル、日本語にすると「欧州宴会葡萄酒歌謡音楽祭」とでもなるのでしょうか、「Convivial」と言う単語が入っている事によって、いかにも「飲めや歌え」といった楽しさが伝わってくる、素敵なネーミングですね。1993年に始まった音楽祭で、今年が11回目だとか、毎年やっているにしては数が合わないのは、5年に1度くらいのスパンで「欧州~」ではなく「世界~」となって拡大開催されるためです。2010年には第4回となる「World Convivial Wine Song Festival」が予定されているといいます。
その音楽祭でホスト役を務め、その「宴会」を盛り上げることに大きな貢献をしているのが、この「ベーラ・バルトーク男声合唱団」であることを知れば、ここで歌われているゾルタン・コダーイの曲で見せつけた豪放なまでのおおらかさも納得できるのではないでしょうか。
その音楽祭の音楽監督も務めているラクナーに率いられたこの合唱団が届けてくれたアルバムには、コダーイが作った男声合唱のための作品が殆ど網羅された20曲が収められています。最初の曲は、オーケストラによる変奏曲でも知られる「孔雀」です。その 馴染みのあるオーケストラ版では平板に記譜されたテーマのリズムが、ここではハンガリー民謡特有の付点音符によって歌われる事で、より「民族的」なテイストを体験する事になります。ハンガリーの他の作曲家、バルトークやあるいはリゲティでさえ自らのルーツであるといわんばかりに作品の中に散りばめたこのリズム、それがテキストであるハンガリー語に由来している事がここではっきり理解される事でしょう。もちろん、これは、かつて清水脩などによって日本語の歌詞がつけられ、全国の男声合唱団で日常的に歌われていたものとは全く別物であるというある種の感慨にもつながっていくはずです。
そんな、「ハンガリーの合唱なら、俺たちにまかせておけ」と言わんばかりの50人程のたっぷりとした編成によるこの合唱団は、トップテナーの力強い声によって、私達に驚く程の迫力を与えてくれています。ただ、このような元気いっぱいの男声合唱というのは、恐らく今となってはかなり懐かしいものであるには違いありません。最近の合唱の現場では、このようなある種泥臭いサウンドは、もっと洗練された肌触りの良いものに置き換わっているのでは、という感覚は、そんなに的外れではないのではないでしょうか。従って、いかに民族色の強いコダーイの音楽ではあっても、もう少し繊細な響きと表現があってもいいのでは、という思いがついて回ったのは事実です。それは、「夕べの歌」のような場合に、特に感じられる事、とりあえず三和音をきちんとハモらせることから音楽を作っていって欲しいと言うのが、偽らざる望みです。「カラドの歌」のように、様々な情景が次々に現れる曲でも、つい力で押しまくって一本調子になってしまっているのが惜しまれます。
これは、ワイン・ソング・フェスティバルを盛り上げる事には定評のある合唱団による、コダーイの演奏の一つの側面であると思いたいものです。それはそれでいいのですが、もっと別な面からのアプローチによるコダーイも、聞いてみたいものだと、切に感じてしまいました。そう、誇大にならない等身大のコダーイとか。
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by jurassic_oyaji | 2006-04-12 19:46 | 合唱 | Comments(0)
DVORAK/Complete Choruses & Duets




Stanislav Mistr/
Prague Singers
BRILLIANT/92883



ボヘミアのメロディメーカー、ドヴォルジャークの合唱曲を集めたボックスCDが出ました。彼の合唱曲といえば、ラテン語の歌詞による「スターバト・マーテル」や「レクイエム」といった、オーケストラの入った大規模な宗教曲が有名ですが、これはチェコ語による合唱、そして二重唱を全て集めたもの、世界初録音のものもたくさん含まれています。無伴奏、あるいはピアノ伴奏(中には四手のものも)だけという、本当にすぐ合唱団のレパートリーに出来るような可愛らしい曲たち、肩の力を抜いて楽しめるものばかりですよ。
3枚組のボックス、1枚目はデュエット集です。モラヴィア地方の伝承歌をテキストにした殆ど民謡そのものといっても良い素朴な歌、それらの内、まず「4つのデュエット」が、このプラハ・シンガーズという合唱団の団員であるクリツネロヴァーのソプラノと、この合唱団の指揮者であるミストルのテノールで聴くことが出来ます。この2人とも一応ソリストとしてのキャリアもある人達なのですが、いかにも「ソロ」といったオペラティックな歌い方には決してなってはいないので、お互いの声が非常に良く溶け合った響きが心地よく感じられます。続く「モラヴィアのデュエット」という14曲から成る曲集は、ソロではなく2部の女声合唱で歌われています。これも、素朴な発声によるピュアな響きが、チェコ語と見事にマッチして心を打ちます。そう、このボックスを通しての最大の魅力が、この歌い手の共感が込められた言葉から生まれる何とも言えないリズムとイントネーションなのです。
2枚目には、プラハ・シンガーズのフルメンバーによる無伴奏の混声合唱が並びます。有名な「自然の中に」などに混じって、これが世界初録音となる「ロシアの歌」という、これは合唱ではなく混声の重唱が聴けるのが、嬉しいところでしょう。全部で16曲の、ロシアの民謡をチェコ語に直して編曲した、というものです。10曲目の「白樺の木」などは、例の、チャイコフスキーが交響曲第4番のフィナーレに使っていた民謡ですね。
3枚目では、男声合唱と女声合唱が聴けます。2枚目でなかなか澄んだ響きを見せていたこの混声合唱団ですが、これが男声だけになるとちょっと物足りなさが出てきてしまうのでしょうか。内声を歌うには申し分のないこの軽いテナーの声は、男声だけになったときには力強さが不足しているのがありあり、なかなか難しいものですね。ですから、ここでの男声合唱は洗練された、言い換えればちょっと中性っぽい趣になっています。ちなみに「チェコ民謡の花束」という曲の中には、交響曲第8番によく似たテーマが現れます。一方の女声合唱は、これは申し分のない爽やかな響きが楽しめます。なかでも、アルトの力強さが、意外な魅力になっています。
そして、一番最後に入っているのが、「新世界交響曲」の第2楽章、あの「家路」のテーマに歌詞をつけて、混声合唱とソプラノとテノールソロという形で編曲(トゥッケルという人が行っています)したものです。この楽章の真ん中の部分をカットしていますが、最初と最後の金管のコラールも見事に合唱に置き換えるという、しゃれたアレンジ。もちろん、このような編曲は今までにいくらでもあったのでしょうが、ここでの魅力はやはり「チェコ語」です。あの哀愁に満ちたコール・アングレによるメロディは、チェコ語で歌われることによって、なんと豊かな表情を持つことでしょう。意味は分かりませんがね。もしかしたら「座ると痛いよー」とか言ってたりして(それは「疣痔」)。
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by jurassic_oyaji | 2006-04-07 19:07 | 合唱 | Comments(0)
髙田三郎/心の四季 多田武彦/雪明りの路



髙田三郎、福永陽一郎、畑中良輔
大久保混声合唱団、日本アカデミー合唱団
慶應義塾ワグネル・ソサイエティー男声合唱団
関西学院グリークラブ
日本伝統文化振興財団/VZCC 62/63



半年ほど前に、今まで「ビクター」から出ていた日本人の合唱作品のカタログが、いきなり1枚1500円という廉価でリイシューされたことがありました。なんでも、新たに財団が設立されて、その活動の一環としてその様な過去の録音を初出レーベルを超えて発売することになったのだそうなのです。
今から数十年前には、この「ビクター」と、そしてもう一つ「東芝」というレコード会社が、精力的にこのような作品を録音し、発売していたという、今から思えば夢のようなシーンがありました。今回は「ベストカップリングシリーズ」と銘打って、その「東芝」のカタログを存分に使って、同じ曲を別の演奏家が録音したものとカップリングする、という、素晴らしいことをやってくれました。録音データや初出のライナーなども極力再現したという、仕事自体は非常に良心的なものです。
その中で、最近耳にする機会が多かった「心の四季」と、「雪明りの路」を聴いてみましょう。
まず、作曲者の髙田三郎(「たかだ」ではなく「たかた」、しかも「高」の字は傘の下がつながった「髙」だというのは、知ってました?たかが名前ですが)自身が指揮をしている「心の四季」(ビクター)です。これはもちろん、作曲者による解釈を味わう上では、最高のものといえるでしょう。合唱も、先頃なくなった辻正行さんが下振りをした名門、大久保混声合唱団、この曲のスタンダードとして、永遠の命を持つものです。ただ、おそらく「自演」であるためにある種の冒険が許されない分、鑑賞の対象としては物足りなさが残るのは事実です。
一方の東芝版、福永陽一郎による演奏は、とことん指揮者の趣味が生かされた仕上がりになっていて、この曲からしっかりとしたメッセージを受け取るためには格好なものとなっています。不自然なほど遅いテンポから、一つ一つの言葉をかみしめるようにその思いの丈を伝えられれば、そこにもしかしたらこの曲が求めている以上の世界が広がっていようとも、黙って受け入れる他はありません。3曲目の「流れ」で、最後に女声にテーマが戻ってくる部分での、全く思いがけないテンポ設定、これこそが演奏家が独自の感性で繰り広げる「表現」の極地でしょう。ここでの合唱団「日本アカデミー合唱団」というのは、この録音のためだけに結成された(母体となった団体はありますが)合唱団、まさに福永陽一郎の音楽を実践するために生まれてきたようなものなのでしょう。ちなみに、これが録音されたのが1970年なのですが、今の楽譜にはきちんと書き込まれていて、1981年に録音されたビクター版では守られている「無声音」の指示が、全く無視されています。おそらく、最初の楽譜にはなかった指示を、後に作曲者が加えたのでしょうね。そんな「歴史」までも、ここから聴き取ることが出来ます。
「雪明りの路」でも、ビクター版、畑中良輔の端正な、しっとりとした味わいのある演奏を聴き慣れた耳には、東芝版の福永陽一郎の恣意的な表現がとても新鮮に味わえます。特に5曲目の「夜まわり」での粘着質の解釈には、圧倒されてしまいます。データが完備しているので、これが吉田保さんによる録音だということまで知ることが出来ます。かつて「Jポップ」で数々の名盤を生み出した名エンジニア、こんな仕事もしていたのですね。
この企画、このような形で並べて聴くことによって、初出の時に別々に聴いた時には感じられなかったような発見が数多くありました。そして、ある種の懐かしさと、虚無感も。それは、過去にこれだけのものを作り得ていたレコード会社には、今となってはとてもそんな挑戦は望むべくもない、という絶望感がもたらす虚無感なのです。
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by jurassic_oyaji | 2006-04-03 20:11 | 合唱 | Comments(2)
BACH/Matthäus Passion

C.Samuelis(Sop), B.Bartosz(Alt)
J.Dürmüller, P.Agnew(Ten)
E.Abele, K.Mertens(Bas)
Ton Koopman/
The Amsterdam Baroque Orchestra & Choir
CHALLENGE/CC 72232



バッハの「マタイ」は、普通はCD3枚でなければ収まりきらない長さを持っています。どんなに速いテンポで演奏しても2時間40分はかかるでしょうから、2枚に納めようとすると1枚あたり80分、曲の切れ目を考えると、これはちょっと難しい数字です。現に、コープマンの1992年に行われた同じ曲の録音では、演奏時間は2時間4159秒、もちろん3枚組でした。ところが、今回のコープマンの演奏は2時間34分7秒しかかかっていないのです。これでしたら楽々2枚に入ります。こんな速い演奏は他にはないだろうと思ったのですが、実は以前取り上げたロイシンク盤がやはり2枚組、しかも演奏時間は2時間3339秒、もっと速いのがありました。ロイシンクもコープマンもオランダの指揮者、そういう土壌がこの国にはあるのでしょうか。
そんな演奏時間にも現れているように、この「マタイ」は非常にサラサラ流れていくような印象を与えています。合唱が受け持つ情景描写の部分が、ことさらの思い入れもなくあっさり過ぎていくのを見ていると、コープマンはこの曲の中のドラマ性を、ことさら強調しないというスタンスで演奏しているのでは、という思いが強まります。例えば、ピラトがキリストとバラバのどちらを十字架につけるかを民衆に問う場面での民衆の答え、「バラバを!」という減七の和音が、いともあっさり歌われたのには、正直拍子抜けしてしまいました。そこは、必要以上の感情は込めず、あくまで音楽として聴いてもらいたいというコープマンのピュアな心が、もっとも象徴的に現れた部分だったのかも知れません。もちろん、コラールなども、くどいほどの思い入れをその中に込める指揮者の多い中、これだけあっさり歌われると逆の意味での感動を呼ぶことでしょう。
そんな流れの中で、テノールのアグニューだけは、果敢に主張のこもった緊張感のあるアリアを披露してくれています。第二部の「Gedult!」など、その真に迫った表現は、まわりが醒めている分、非常に際立って聞こえてきます。反対に、そのサラッとした流れに埋没してしまうだけでなく、さらにテンションを下げることに貢献しているのが、アルトのバルトシュです。アルトのアリアといえば、この曲のまさに「聴きどころ」といっても構わない珠玉の名曲ばかり、それがことごとく暗く、なんのファンタジーも感じられない無惨な姿に変わってしまっているのは、聴いていて辛いものがあります。特に、第2部の冒頭を飾る「Ach! nun ist mein Jesu hin!」は、ヴァイオリンのオブリガートも平板そのもの、バルトシュの稚拙な歌と相まって、言いようのない失望感を味わわされます。
トラヴェルソの名手、ハーツェルツェットにも、何か勢いが感じられないのが残念です。新全集(ベーレンライター版)での6番「Buss und Reu」のオブリガートでは、完全に2番のモーネンに喰われてしまっていますし、49番「Aus Liebe」の長大なオブリガートも、装飾に頼った、力のないものでした。
ちなみに、このCDと同じ内容のものが、DVDでもリリースされています。こういうのも最近の新しい売り方なのでしょう。見ないようにと思っても、きっとあのコープマンのやんちゃ坊主のような顔が飛び込んでくるはず、これを見ながら聴いたら、あるいは音楽の印象も異なって感じられるのかも知れませんね。
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by jurassic_oyaji | 2006-03-31 19:49 | 合唱 | Comments(0)
Le Cantique des Cantiques




Anders Eby/
Mikaeli kammarkör
FOOTPRINT/FRCD 011



アルバムのサブタイトルが「フランス語による合唱音楽」、ア・カペラ混声合唱による「フランス語」がテキストとなった4人の作曲家の作品が集められています。有名なドビュッシーの「シャルル・ドルレアンによる3つのシャンソン」が1904年に作られていますが、他の3曲はいずれも20世紀半ば以降の作品です。
表題の「ソロモンの雅歌」は、もちろんパレストリーナの作品で有名な、旧約聖書の「雅歌」からテキストが取られたものです。これを作った1908年生まれのフランスの作曲家、ジャン・ダニエル=ルシュールは、ブーレーズやジョリヴェなどと「若きフランス」というグループを結成していたことでも知られていますね。1952年にマルセル・クーロー(この合唱指揮者の手によって、クセナキスの「夜」や、メシアンの「5つのルシャン」など、数多くの名曲が命を吹き込まれました)に委嘱されて作ったこの曲は、彼の最も有名な曲として世界中で演奏されているそうですが、私が聴いたのはこれが初めてです。
しかし、スウェーデンの合唱団、ミカエリ室内合唱団は、その私の初体験を、いかにも棒読みのような薄っぺらなフランス語の発音で、いささか白けさせてくれました。これが発音だけの問題に終わらないのが、ちょっと困ったところです。「北欧」と言われて連想されるようなキッチリしたハーモニーが、なかなか生まれてこないもどかしさ、ちょっとした「ゆるさ」が、そこにはあったのです。私の過大な期待に対する見返りがこれなのか、と思い始めた頃、5曲目の「禁断の庭」になった途端、今までとは全く異なる明晰な響きが聞こえてきたのは、この曲がセミコーラスで演奏されていたからでしょう。ピックアップメンバーによるこの曲からは、怪しいまでのエロティシズムさえ漂ってくるような、真に迫った表現が感じられたのです。トゥッティでもこの水準が維持されていれば、何も言うことはないのですが。
フランセの「ポール・ヴァレリーの3つの詩」では、いくらか立ち直りを見せてくれたでしょうか。3曲目の「妖精」での、伴奏の軽やかなリズムパターンなどは、彼一流のの軽妙な持ち味をよく引き出しているものです。
ただ、多くの名演を体験してしまっているドビュッシーでは、この程度の演奏ではちょっと踏み込みが浅いと感じてしまうのは、仕方のないことでしょう。ディクションの欠点はここでも露呈されていて、言葉のイントネーションが活かされていない平板な表現に終始しているという印象は拭うことは出来ません。2曲目のアルト・ソロの、何とかったるいこと。
最後の曲は、ドイツの作曲家ヴェルナー・エックの「3つのフランス語の合唱曲」です。これがあったから、アルバムタイトル(サブタイトル)も「フランスの~」となっていたのでしょうね。1940年にバレエの中の曲として作られた物ですが、なぜか、この曲に最もシンパシーをおぼえてしまったのは、演奏家との相性が最も良かったせいなのかもしれません。ドビュッシーと同じ、シャルル・ドルレアンのテキストを、いかにもフランス風のハーモニーで包み込んだ作品、しかし、そこには明らかにドイツ音楽の論理性が見え隠れしています。不得手なフランス語でつい馬脚を現してしまったスウェーデンの合唱団、しかし、言葉に関しては同じような境遇にあったこの作曲家の作品からは、見事なまでの共感を引き出すことが出来たのでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2006-03-17 19:34 | 合唱 | Comments(0)