人気ブログランキング |
おやぢの部屋2
jurassic.exblog.jp
ブログトップ
<   2018年 12月 ( 28 )   > この月の画像一覧
Jurassic Award 2018
c0039487_23275992.jpg










年末恒例の「ジュラシック・アウォード」の発表です。この1年間に「おやぢの部屋」で聴いたものの中から、カテゴリー別に最も印象が深かったものを選ぶ、というものです。もちろん、審査員は私自身です。
昨年の末あたりから、今までは聴くことのできなかったサラウンドのソフトも聴くことができるようになりました。そのあたりも、今年の評価には影響を与えているはずです。
まずは、カテゴリーごとのアイテム数のランキングです。
第1位:合唱(今年47/昨年47)→
第2位:オーケストラ(35/33)→
第3位:フルート(18/18)→
第4位:オペラ(9/15)→
第4位:現代音楽(9/15)→
第6位:書籍(7/11)→
全て昨年と同じランキングですが、「オーケストラ」以外ではアイテム数が増えていないのが気になります。

■合唱部門
今年も、全く知らない作曲家や、全く聴いたことのない作品を手当たり次第に聴いてきましたが、なかなかこれというものには出会えませんでした。作品はなかなかのものなのに、演奏がいまいちで惜しいな、というものもありましたし。ですから、やはりよく知られた作品を新しいアプローチでまるで別の作品のように仕上げていた、クリスティの「ロ短調ミサ」あたりが、最も新鮮な感動を与えてくれました。
■オーケストラ部門
本当はクレンツィスのマーラーを挙げたかったのですが、あちらは某レコードアカデミー大賞受賞などという恥ずべきステイタスを獲得してしまったので、次点のバーンスタインのベートーヴェン交響曲全集で。これは、演奏も素晴らしいものですが、かつて4チャンネルとして録音されていたものを初めてBD-Aでサラウンド化したという、最新のフォーマットでのリイシューで、同じような試みの中では最も成功しているのではないでしょうか。これが大賞です。
■フルート部門
なんといっても、フルート界のレジェンド、ウィリアム・ベネットが78歳の時の録音が最高でしょう。彼のお弟子さんのローナ・マギーのソロ・アルバムも素敵でした。
■オペラ部門
これも、やはり昔の4チャンネルの録音をBD-Aで復活させたバーンスタインの「カルメン」を。このアイテムは以前にSACDでもサラウンド・バージョンが出ていたのですが、音のクオリティではやはりBD-Aの方が一歩抜きんでていました。
■現代音楽部門
シベリウスのひ孫という作曲家、というか、ロックバンドのベーシスト、ラウリ・ポラーの自作自演盤が、高い次元でジャンルの枠を超えた傑作でした。ここでは「現代音楽」の一つの進む道が、明確に開けていたはずです。
■書籍部門
やはり、「ベートーヴェン捏造」が秀逸でしたね。今まで学術レベルでは定説となっていたシンドラーの行状を、きわめて平明な(ちょっと度を越してる?)文体で綴ったというあたりが、勝因でしょう。それでも、「運命」や「テンペスト」といったタイトルや、「交響曲第8番の第2楽章はメトロノームを模倣している」といった俗説は、なくならないのでしょうね。

今年は、努めてサラウンドの音源を聴くようにしていたような気がします。「オーケストラ」でだけアイテムが増えていたのは、そのせいなのでしょう。まだ、配信データでサラウンド再生を行うには、かなりハードルが高いようですので、容易に高音質でサラウンド再生ができるBD-Aでのリリースが増えてほしいのですが、なかなかそうはいかないのがもどかしいですね。

by jurassic_oyaji | 2018-12-31 23:29 | Comments(2)
小豆は、まだ半分残ってます
 今年ももう終わりますね。本当にいろんなことがあった年でした。まあ、そのおかげで何十年ぶりかで料理に手を出したりもしたんですけどね。まあ、いつもやりたい気持ちはあったのですが、あえて他人の領域に立ち入ることは避けていました。というか、下手に手を出すとそのままそれが私の役目になってしまいそうだったので、それが怖かったのですけどね。
 でも、今回はそんなことは言ってられません。今まで食事を作ってくれていた人が第一線から退いてしまったのですから、いやでも自分で作るしかないことになりましたからね。短期間なら弁当を買ってきたり外食で乗り切るという選択肢もありましたが、いくら何でもそんなことが半年も続くのは大変ですよ。
 それでまず、ご飯の炊き方を教えてもらいました。昔も炊いたことはあったのですが、今では炊飯器は全く別物に進化していますから、それが逆にネックになって、ちょっと使うのが怖かったのですよ。でも、教えてもらったとおりにやったら、ものすごく簡単にできてしまったので、もうご飯に関しては解決、3合ぐらい炊いておいて、あとは小分けにして冷凍しておけばいいですしね。
 それと、今年はサンマがとても安く手に入ったのも幸運でしたね。いったい今年は何回サンマのお世話になったことでしょう。
 そして、クレアチニン値が高いということで今まで制限していた塩分について、精密検査をした結果、その数値ほど悪い状態ではなかったことが分かり、そんなに気にしないで普段通りに塩分が取れるようになりましたから、今までは実だけ食べて汁は残していた味噌汁も、全部飲めるようになりました。そこで、味噌汁もいろんな具材を試して作ってみることもできましたね。ま、結局はいくつかのパターンしか残りませんでしたが、それだけで「食事」らしくなって来たのは確実なことです。
 そこで、この年末には、お正月のお汁粉のための小豆を自分で煮てみることにしました。今までは出来合いのあんこを買ってきていたのですが、そういうものには決まって人工甘味料が入っているのですよね。もう、私はこれが入っている飲料は絶対飲まないことにしているので、ほかの食品でもこれはNG、もうそれがないものを探し回っていました。それと、この間亡くなった母親が、昔はいつも自宅であんこを煮ていて、その味が忘れられないんですよね。それを、自分で作って飽きるほど食べてみたいな、とも思ったんです。
 ネットでレシピを調べてみると、そんなに難しそうではありませんでした。ただ、材料の小豆だけはいいものが欲しかったので、北海道展をやっているところで買ってきました。
 そして、いよいよ今日、そのレシピを使って実際に作ってみましたよ。まず、その大豆を鍋にあけて水洗いをしてみると、意外と小さいことに驚きました。いつも、出来上がった小豆しか見ていないので、原料はこんな小さなものだとは気づきませんでした。確かに、何度かお湯を捨てながら煮ていくと、その豆がどんどん大きく膨らんでくることが分かります。1時間もすると、もうあんこそのものに変わっていましたね。
 それに、今度は砂糖とほんの少しの塩を混ぜて、もう少し煮込んだら出来上がりです。レシピには、砂糖の量は好みに応じて変えろと、最小値から最大値までが示されていたのですが、その最小値でまさに、昔食べ慣れたあの味になっていましたね。
c0039487_22151147.jpg
 一応「喪中」なので、寂しいお正月になりそうですが、このお汁粉だけで小さかった頃のお正月の気分が戻ってきそうです。
by jurassic_oyaji | 2018-12-30 22:17 | 禁断 | Comments(0)
WAGNER/Götterdämmerung
c0039487_21155456.jpg

Gun-Brit Barkmin(Brünhilde), Daniel Brenna(Siegfried)
Syenyang(Gunther), Eric Halfvarson(Hagen), Amanda Majeski(Gutrune)
Michelle De Yong(Waltraute), Peter Kálmán(Alberich)
中村恵理(Woglinde), Aurhelia Varak(Wellgunde), Hermine Hasselblöck(Froßhilde)
Jaap van Zweden, Eberhard Friedrich(Chorus)/
Bamberg Symphony Chorus, Latvian State Choir
Hong Kong Philharmonic Orchestra and Chorus
NAXOS/NBD0075A(BD-A)



2015年から始まったNAXOSによる香港フィルの「指環」ツィクルスの録音は、年頭の1月にコンサート形式で行った公演を収録して、同じ年の年末にリリースするという形で制作されてきました。そして、今回の「神々の黄昏」でめでたく完結です。これで、世界で初めて、ハイレゾ・サラウンド録音のBD-Aによる「指環」が完成したことになります(もっとも、映像としてのBDだったら、すでに同様のフォーマットは出ています)。
このレーベルはBD-Aのリリースに関しては、かなり初期の段階から手掛けていたようです。もちろん、それに備えてマルチチャンネルによるサラウンド録音も行い始めていたのでしょう。しかし、ある時期からは、BD-Aのリリースはぱったりと途絶え、この香港フィルの「指環」のツィクルスの途中で、それ以外のリリースは全くなくなってしまいました。ですから、おそらくこの「神々の黄昏」が、このレーベルにとって最後のBD-Aとなるのでしょう。こんなタイトルのアイテムで幕を下ろすなんて、なんて粋な引き際なのでしょうね。
今ではニューヨーク・フィルの音楽監督にもなってしまったヤープ・ヴァン・ズヴェーデンと香港フィルによる「神々の黄昏」のソリストは、これまで同様世界中から旬のワーグナー歌手が集められているようでした。あまり名前を聞いたことがない人もいますが、経歴を見るとそれぞれに立派なキャリアを誇っている人ばかり、なかなかの人がそろっているようでとても楽しみでした。しかし、序幕のノルンたちの歌が終わってメインキャストのジークフリートとブリュンヒルデの登場となった時に、そんな期待は全く裏切られてしまいました。
いや、ブリュンヒルデのグン=ブリット・バークミンは、ちょっと芯の細いところはありますが、逆に力で頑張りがちな今までのブリュンヒルデとは一味違った、とても新鮮な魅力を振りまいてくれていましたよ。問題はジークフリート役のダニエル・ブレンナです。これこそは、もろに力に頼った歌い方しかできない、今のワーグナー業界では全く通用しないどんくさいテノールではないでしょうか。最近では、いくらワーグナーだといっても、ただ声がでかいだけではとても使い物にはならなくなっています。かえって、たとえばフォークトのような全然軽い声でも、十分にワーグナー歌手として人気を得ることができるようになってしまいました(私は嫌いですが)。ですから、もはや最低でもカウフマンぐらいの正確な音程と豊かな表現力がないことには、トップに躍り出ることはできないのですよ。
もう一つ、残念だったのがラインの乙女たちです。既読にならなかったから、ではありません(それは・・・ライン)。この3人は「ラインの黄金」と全く同じキャストですね。そして、日本人の中村恵理さんがヴォークリンデを歌っています。彼女は前回はちょっとディクションで引っかかっていたのですが、今回は完璧に歌っていました。ところが、ヴェルグンデのアウレーリア・ヴァラクが全くの音痴なので、3人そろった時に全くハモらないのですね。これも、今となっては致命的。
でも、それ以外の人たちは、本当にすごい人たちばかりでした。グンター役の中国人、シェンヤンの知的な歌い方はこの役にはもったいないほど、対するハーゲン役のアメリカ人、エリック・ハーフヴァーソンは、地響きのするような深い声です。
そして、この作品だけに登場する合唱団が、とても素晴らしい声と、表現力で迫ってきました。なんたって合唱指揮がバイロイトのエーベルハルト・フリードリヒですからね。
もちろん、オーケストラも文句なし。やはり時代の最先端のワーグナーを聴かせてくれていました。それは、「葬送行進曲」での、決して叫ぶことのない、抑制された中から深い情感を湧き出させてくる演奏を聴けば、よく分かります。そこには、繊細さの中に「翳り」すらも感じることができる、格別な魅力がありました。

BD Artwork © Naxos Rights US, Inc.

by jurassic_oyaji | 2018-12-29 21:19 | オペラ | Comments(0)
ジョナサン・ノット指揮の東京交響楽団
 一月半ほど前に、「東京にコンサートを聴きに行きたいが、その日がニューフィルの指揮者練習とぶつかる可能性がある」と書いていましたが、やっとこの時期の指揮者の予定が入ってきて、コンサートには全然かぶらないことが分かりました。だいぶ前から、7月はだめだとわかっていたようなのですが、それだったらもっと早く教えてくれたらいいのに。というのも、一般向けのチケットが発売されたのが今月の初めだったんですが、その時にはもうほとんど席はなくなっていましたからね。気が気じゃありませんでしたよ。指揮者の予定が決まるころには、もう空席はなくなってしまっているんじゃないかと思いましたね。なんたって、去年のメシアンでは、その日のうちに全席がなくなってしまいましたからね。
c0039487_22250886.jpg
 ですから、今日になって恐る恐る「ぴあ」を覗いてみて、まだ結構席が残っているのには一安心、すぐさま7月20日のサントリーホールと、翌日のミューザ川崎のチケットをゲットしましたよ。まだ先の話ですが、これで、心おきなくリゲティの「レクイエム」を楽しんでこれることになりました。「『レクイエム』を楽しむ」というのは、ちょっと変な言い方かもしれませんが。
 まあ、世の中にはほかの人から見たら「変」なことなんていっぱいありますから、そんなことは構いません。この間中私のFacebookで「友達限定」で公開していたこの写真も、そんな「変」なものでしたね。
c0039487_22250880.jpg
 これは、旧市街の北部にある、かつてはバス通りだった道沿いに、「一夜にして」現れた「変」な建物です。この周りには、古くからの民家や商店が立ち並んでいますが、それらは一様に時代からは見捨てられたようなそれこそ「昭和」のたたずまいを持ったものでした。そのど真ん中に、こんな、まるでテーマパークの中にあるような建物が出現したのですから、初めて見たときには信じられない思いでしたね。
 この写真を撮ったのは今月の22日でした。それで、その前はいったいどんな状態だったのかと思ってストリート・ビューを見てみたら、そこには今年の6月の写真がありました。
c0039487_22250871.jpg
c0039487_22250811.jpg
 これでは、足場が組んであるので、別に何の変哲もない建物だと思うしかありませんね。ただ、なんだか奥行きが結構あるようなので、今日になって、改めてその写真を撮りに行ってきました。
c0039487_22250813.jpg
c0039487_22250838.jpg
 ほぼ、ストリート・ビューと同じアングルで撮ったつもりですので、まあ全貌はわかるでしょうね。さっきの写真の時はまだ建物の前は工事中でしたが、もうほとんど舗装が完成していましたね。もう少しすれば、これが何のために作られたものなのかがはっきりすることでしょう。
 いや、別に何の意味もなく、単に、民家を発注した施主の趣味が反映されただけのものなのかもしれませんけどね。そうだとしても、これだけのインパクトで、付近の景観を一変させてしまったからには、それ相応のコンセプトを公表してほしいな、とは思いますね。私有地に好きなデザインで家を建てるのはその人の自由ですが、「景色」というものは世の中全ての人の所有物、「パブリック・ドメイン」なのですからね。
by jurassic_oyaji | 2018-12-28 22:27 | Comments(0)
UNIVERSITY STREET
c0039487_23301081.jpg





竹内まりや
ARIOLA/BVCL 941


1979年5月にリリースされた、竹内まりやのセカンド・アルバムの、リマスタリングによる初めてのリイシューです。オリジナルはファースト・アルバムからきっちり半年後のリリースだというあたりに、この時期のまりやの置かれたスタンスがにじみ出ていまりや。ここには「女子大生」を「アイドル」としてデビューさせ、矢継ぎ早にシングルやアルバムを作って稼げるうちに稼ごうというレコード会社の思惑がはっきり表れてはいないでしょうか。
そう、彼女はこのころはまだ大学生でした。結局アイドル活動と学業との両立はできずに中退することになるのですが、この、もろ「大学」という単語が入ったタイトルのアルバムではそんな「大学」がらみの曲を最初と最後に置いて、彼女の「学生」としての立ち位置を主張しているようです。
1曲目の「オン・ザ・ユニヴァーシティ・ストリート」は、彼女自身の作詞作曲。「長く短かった4年の月日が終わる」と歌っています。ライナーノーツの中の現在の彼女の言葉によれば、これは「卒業できませんでした、というお知らせ」だったのだそうです。
そして最後の曲が「グッドバイ・ユニヴァーシティ」。これも歌詞は彼女自身の英語によるものです。その中では、「I'm starting to cry」と、卒業と同時に分かれる恋人なのか、あるいは不本意な形で去ることになった大学なのかはわかりませんが、その悲しみを歌っているようです。
そんな風に、前作では彼女のオリジナル曲は1曲だけでしたがここでは作詞だけのものも含めれば3曲に増えています。そのクオリティも、正直シロートの域を出ていなかった前作の収録曲に比べると、格段にアップしていることも分かります。このあたりから、彼女のソングライターとしての資質が本格的に開花していったのでしょう。ただ、そうは言ってもメージャー・セブンスというカッコいいコードで始まる「涙のワンサイデッド・ラヴ」などは、1967年にフランシス・レイが作った「パリのめぐり逢い」という映画音楽とそっくりなんですけどね(のちの「駅」も、ダニエル・ビダルのヒット曲のパクリと騒がれます)。
そして、同様に前作では1曲提供していただけの山下達郎の存在感が、ここでは格段にアップしています。作詞、作曲、編曲のすべての面で深く関わるようになっているのですね。特に、シングルヒットした「ドリーム・オブ・ユー~レモンライムの青い風~」をアルバムに収録する際に達郎が大幅に編曲し直したバージョンは、いかにもアイドル然としたシングル・バージョンとは雲泥の差のカッコよさです(フルーティストの名前がクレジットされていませんが、これは中川昌三さんでしょうかね)。ボーナス・トラックに、その瀬尾一三のアレンジが収録されていますから、それはすぐに聴き比べることが出来ます。
前から聴いていたベスト盤にあった「J-Boy」は、このオリジナルアルバムではやはり編曲が違っていました。そして、ボーナス・トラックにそのライブ・バージョンとして入っていたのが、聴きなれたものでした。これは逆に、まあ、聴きなれていたということもあるのでしょうが、曲を作った杉真理が編曲したアルバム・バージョンよりも、青山徹という人のバンド・アレンジの方が数段練れていると思えます。というか、杉はアルバムで曲も提供していますが、彼のセンスは、あまり好きではありません。
例によって、1982年にLPがリリースされた2年後にCD化されたベスト盤と、今回のリマスター盤との音の比較です。先ほどの「J-Boy」は、新たにリミックスされていたようで、楽器の定位が変わっていました。音そのものは、ブラスの生々しさがちょっと失われています。そして、達郎バージョンの「ドリーム・オブ・ユー」では、やはりブラスがかなり甘くなっています。「涙のワンサイデッド・ラヴ」では、とても気になった冒頭のヴォーカルのドロップアウトが、かなり修復されていたようです。

CD Artwork © Sony Music Labels Inc.

by jurassic_oyaji | 2018-12-27 23:31 | ポップス | Comments(0)
指揮者は外山雄三
 半年ぶりに退院した愚妻は、一日中朝から晩までNHK-FMを聴いていたので、いっぱしのクラシック通になっていました。私は最近はこの局とは全く縁がなくなっていますが、確かにここはクラシックに関してはかなりの時間を割いていましたからね。なんたってNHK交響楽団の定期演奏会を生放送するんですから、すごいものです。ですから、昔この局の番組を録音までして一生懸命聴いていたころには、とんでもない事故に出会ったこともありましたからね。そのNHK交響楽団の生放送でラフマニノフのピアノ協奏曲第2番が演奏されたときに、ピアニストが「落ちて」しまったんですよ。第3楽章の最後近くで、同じようなフレーズが何回か続くところで、次にどこに行くか分からなくなったようなんですね。まあ、そういうことはよくあることですから、指揮者がちゃんとしていればうまくごまかすことはできるはずなのですが(実際、ニューフィルでも本番でそういうことがありました)、その時の指揮者はとことん無能だったので、結局ソリストを助けることはできませんでした。
 それがトラウマになったのでしょうか、その、世界的なコンクールで優勝したピアニストは、その曲だけはいまだに録音はしていないはずです。たぶん。
 ただ、これはFMではしっかりリアルタイムで聴けたのですが、その後テレビで放送されたときには、その部分だけ音声が別の日の「ちゃんと」弾けたテイクに差し替えられていましたね。その時の映像は、別のシーンのものが使われていたはずです。
 それを確かめたいと、もしやと思ってネットを検索してみたら、なんと、その「落ちた」バージョンの映像がフルで公開されているではありませんか。こちらです。
c0039487_23412863.jpg
 この映像の31:24あたりが問題の箇所です。オケに置いてけぼりにされて、しょんぼりしているピアニストの表情が印象的ですね・・・って、この映像、確かに見たことがありましたよ。ということは、これはテレビでも生放送されていたんですね。私が聴いたのはFMではなく、このテレビ放送だったのでしょうか。それが再放送されたときに、修正されていたのでしょうかね。このあたりは、記憶がとても曖昧です。
 何はともあれ、そんなラジオを聴きまくっていた愚妻は、そこである疑問に立ち当たったそうなのです。かつては「ショスタコーヴィチ」と呼ばれていた作曲家が、今では「ショスタコーヴィチ」になっているが、これは同じ人のことなのか、という疑問です。ですから、それを、自他ともに認めるクラシック通の私に聞いてきたのですね。もちろん、私は、それは同じ作曲家で、最近は「ヴィチ」ではなく「ヴィチ」と呼ぶことがおおくなっているのさ、と答えてあげました。
 そこで、私も、確かに最近の世の中ではかつて間に「ッ」が入っていた名前で、その「ッ」がなくなっているものがその他にもたくさんあったことに、はたと気づきました。特にドイツ人の名前では、それがはっきりしているようですね。「ハインリヒ」は「ハインリヒ」ですし、「フリードリヒ」は「フリードリヒ」にいつの間にか代わっていましたね。そして、あの有名な「ヒトラー」が、どうやら「ヒトラー」と呼ばれているようだと気づいた時には、本当に驚きましたよ。「ヒトラー」なんて、ぜんぜん極悪人らしくないじゃないですか。彼の手下だった「ゲペルス」は、「ゲペルス」なんでしょうね。
 あとは、音楽関係だと、イギリスの主に合唱曲で有名な作曲家「ジョン・ラター」も、今では「ジョン・ラター」となってしまって、なんだか別の人のように思えてしまいます。さらに、今仙台でロングラン中の「オペラ座の怪人」を作ったミュージカル作曲家、「アンドリュー・ロイド=ウェバー」も「ロイド=ウェバー」ですから、調子が狂ってしまいます。
 ですから、これがこのまま進むと、「蝶々夫人」を作った人は「プチーニ」、今度ニューフィルで演奏することになるはずの「ウェーバーの主題による交響的変容」を作った人は「ヒンデミト」と呼ばれるようになるのでしょうね。
by jurassic_oyaji | 2018-12-26 23:42 | 禁断 | Comments(0)
ベートーヴェンを聴けば世界史が分かる
c0039487_21244610.jpg








片山杜秀著
文藝春秋刊(文春新書 1191)
ISBN978-4-16-661191-1



片山さんといえば、特に近現代日本音楽に関してのとても緻密な文体による文章がおなじみです。そんな片山さんの最新刊は、こんなぶっ飛んだタイトルの新書でした。なんか、この、よくあるヤクザな「音楽評論家」気取りのライターが付けそうなタイトルには、ちょっと引いてしまいます。さらに、本文を読み始めると、なんともすらすらと読みやすい「ですます調」だったのには驚きました。まあ、ベートーヴェンにもあるようですが(それは「デスマスク」)。
ただ、それは確かに親しみやすい文体ではあるのですが、時折ちょっと練れていないな、という感じがするところがあります。もしや、とは思ったのですが、あとがきを読んでそれは確実なものになりました。これは「語り物」だったのですね。いわば「インタビュー記事」です。もちろん、おおもとのラフな原稿はあるのでしょうが、基本的には片山さんが話したことをそのまま文章に起こした、というものですから、文体に一貫性がないのは当たり前なのでした。
もっと言えば、そのような出自ですから構成にも緻密さを欠き、時には何の脈絡もなくほかのテーマに「話」が移ってしまったりしていますから、なんとなく雑な感じは否めません。ここは、しっかりご自身でチェックを入れて、「片山ブランド」たる隙のない文章として仕上げてほしかったものです。
本書の目指したものは、「クラシック音楽」の作曲家、あるいはその作品を通して、その当時の社会的な構造を浮き出そう、ということなのでしょう。確かに、普通の「世界史」で音楽までが語られるのは稀ですし、逆に「音楽史」を「世界史」の一環としてとらえた書物も、あまり見かけませんから、これはなかなか鋭い着眼点ですね。そこでこの平易な文体ですから、普段あまり書物を読まない人にとっても、とても親切な体裁です。
ただ、そこで語られていることの基本は、すでに、例えば柴田南雄さんのような真の知識人によって披露されてしまっていることですから、これはその二番煎じであるような印象はぬぐえません。とは言っても、片山さんはある意味柴田さんをも凌駕するほどの知識人ですから、これまではなかったような新鮮な視点を感じる部分も確かに存在します。
それは例えば「学校」について語った部分あたりでしょうか。それまでは、たとえばハイドンが、自身の作品を聴衆の成熟度に合わせてスタイルを変えたり、ベートーヴェンが「第9」の終楽章であえて平易な旋律をテーマとした(これらも、かなり刺激的な指摘)というような相互作用が、作曲家とそれを受容する層との間にありました。「クラシック音楽は、その時代の支配者の庇護のもとに成り立っている」というのが、ここに至るまでのテーゼでした。
しかし、「学校」の中では、そのようなチェック機能が働かずに音楽だけが独り歩きをして、「一般の聴衆と乖離した」難解なものになっていく、というのが片山さんの指摘、これはかなり興味深いものです。
ただ、残念なことに、そのようなクラシック音楽の歴史が、ここではラヴェルあたりで終わってしまっているのです。おそらくこの本の読者は、「学校」についてあれほどのことを言っているのだからそれが「現代」ではどのように帰結しているのかは、ぜひ知りたい、と思うのではないでしょうか。それを「取り扱ってもなかなか喜んでもらえない領域なので、踏み込んでいません」ですって。それはないでしょう。
アカデミズムによって難解となったクラシック音楽が、その後どのような道をたどり、今この時代にはどうなっているのか、それを片山さんの「口」からぜひ聞きたかったと、切に思います。
ベートーヴェンの交響曲第8番の第2楽章が「メトロノームの音を模写した」などと、今ではほぼ真実ではないとされているネタを取り上げるまえに、やることがあったような。

Book Artwork © Bungeishunju Ltd.

by jurassic_oyaji | 2018-12-25 21:29 | 書籍 | Comments(0)
Debussy/Prélude à l'apres-midi d'un faune, Jeux, Nocturnes
c0039487_20205130.jpg


Marion Ralincourt(Fl)
François-Xavier Roth/
Les Cris de Paris(by Geoffroy Jourdain)
Les Siècles
HARMONIA MUNDI/HMM 905291



このレーベルのドビュッシーの没後100年の記念シリーズとしてリリースされたCDは全部で10枚ほどありますが、その中でオーケストラ作品のものはたった2枚しかありません。やはり、大編成のオーケストラの録音にはかなりの経費が必要ですから、今のご時世ではなかなか実現は難しいのでしょう。
それでも、今ではアルバムを出すたびに高い評価を得ている、ロトとレ・シエクルのコンビでしたら「安全牌」でしょうから、しっかりその一翼を担ってくれました。
このCDのための録音は、今年の1月にパリのフィルハーモニーで行われています。さらに、このパッケージにはボーナスとしてコンサートの映像が収録されたDVDも付いていますが、それはこのパリのコンサートではなく、その後の6月に行われたスペインのグラナダでのコンサートの模様が収録されているのです。ただ、演奏曲目がCDでの「牧神」が「民謡主題によるスコットランド風行進曲」に代わっていますから、肝心の「牧神」のソロ・フルートの映像を見ることはできません。そして、「ノクチュルヌ」の合唱も、スペインの合唱団に代わっています。
今年の6月といえば、このコンビが来日公演を行った時ですね。ワールド・ツアーの一環として、日本にも立ち寄っていたのでしょう。その時のコンサートは6月12日の東京オペラシティでの1回しかありませんでした。この時には、「牧神」は演奏されましたが、合唱が入る「ノクチュルヌ」ではなく、ストラヴィンスキーの「春の祭典」が演奏されましたね。
そんな情報を調べていたら、このコンビはこれが初来日ではなく、それ以前2007年と2008年にあの「ラ・フォル・ジュルネ」のために来日していたことも分かりました。今ではすっかり有名になってしまいましたが、その頃はそんなドサまわりもやっていたのですね。
まずは、ボーナスDVDで彼らの楽器などをしっかり見ることができました。ホルンがピストンのタイプなのが目につきましたね。それと、弦楽器の配置もヴァイオリンが両翼に分かれる「対向型」であることも分かりました。その効果は、CDで聴くとはっきりします。やはり、ドビュッシーはそのころのスタンダードだったこの配置を念頭において、曲を作っていたのですね。
面白いのは「ノクチュルヌ」での女声合唱の位置、彼女たちはなんと弦楽器と木管楽器の間に座っていましたよ。おそらく、ホールで聴くときには弦楽器の陰になってそこに合唱がいることはわからないのではないでしょうか。もちろん、歌う時も座ったままですから、お客さんはどこから聴こえてくるのか一瞬分からなくなってしまうかもしれませんね。
これは、スペインでのライブの模様ですが、CDに入っているパリでの録音では、合唱がなんだか移動しながら歌っているようにも聴こえます、以前「ダフニス」の時には、確かに動かしていたので、もしかしたらスペインとは別のスタイルで歌っていたのかもしれませんね。
ソロ・フルーティストのラリンクールの姿も、このDVDで初めて見ることができました。彼女は構えるときに、普通の奏者のように楽器が水平か右手が下がるのではなく、右手のほうを高くして演奏しているように見えます。ですから、2番奏者は右下がりなのでかなり異様な風景です。おそらく、彼女は唇の右側に穴ができるアンブシャーなのでしょう。
その音は、いつもながらのかなりおとなしい音色で、表現も穏やかでした。それは、ガット弦が使われている弦楽器の音色とは見事に合致していて、薄暗いモノクロームの世界が広がっていました。「ノクチュルヌ」の2曲目の「祭」のような派手な曲でも、ここからは普通のオーケストラのようなキラキラした世界は見えてきません。ドビュッシーの音楽を語るときに、よく北斎の浮世絵が引き合いに出されますが、こんなサウンドではそれよりも雪舟の水墨画の方が似合っています(ぼくが、そう思っているだけですが)。

CD Artwork © harmonia mundi musique s.a.s.

by jurassic_oyaji | 2018-12-23 20:29 | オーケストラ | Comments(0)
これからは月1の点滴
 数日前、ドコモからメールがあって、「ご契約のデータ量に到達したため、通信速度が低下し、最大128kbpsになっております」ということが伝えられました。確か、その契約データ量というのは、1ヶ月50GBだったような気がしますが、今月はそれを超えてしまったということなのでしょう。これには驚きました。今までの使用量は別に動画を見たり音楽を聴いたりということはほとんどないので、多くても数GBしかなかったはず、そんな生活のパターンが急に変わったわけでもないのに、いきなりこんなに使ったなんて、考えられません。
 そのメールでは、データ量の「追加加入」の案内も続いていましたから、そんなことで少しでも料金を上げようとして、偽のデータ量をでっち上げたのかな、とさえ思いましたね。ドコモだったらやりかねませんから。
 ところが、きちんと使用料を確認してみると、どうやら、その契約は家族単位で結んでいたことが分かり、愚妻の番号が50GBを超えていたことが分かりました。そして、なぜそんなに使ってしまったのかも、わかりました。彼女はずっと入院していて、その間スマホで毎日ラジオを聴いていたというのですね。radikoというアプリで、もっぱらNHK-FMをずっと聴いていたのだそうです。それだったら、50GBなんて軽く超えてしまいますね。もしかしたら、最近の病院ではWIFIも完備しているのかもしれませんが、入院患者は使えないでしょうからね。
 さいわい、愚妻は今日退院したので、もうスマホでラジオを聴くことはありませんから、この状態もあと1週間もすれば元に戻り、もうこんなことは起こることはないでしょう。
 愚妻が心臓の手術を受けたというのは、だいぶ前にここに書きました。そのために5月の17日からさる総合病院に入院して、普通なら簡単な手術なので数日で退院できるものが、ほとんど医療ミスといった感じのトラブル続きで入院は長引き、結局退院できたのは6月1日でした。
 手術前は、それで普通の人と同じ生活ができるようになる、という話だったのに、退院しても、今度は消化器のほうが、心臓手術の時の薬の副作用で、具合が悪くなってしまい、7月17日に、今度は同じ病院の別の科に入院することになり、それは9月10日まで続きました。なかなか治療方針が決まらず、最後のほうになってやっと有効な治療薬が見つかり、それで快方に向かい、一応外来には引き続き通うことにはなるものの、退院はできたのでした。
c0039487_23214113.jpg
 しかし、その後も経過ははかばかしくなく、9月25日に再々入院、結局、その病院ではもはや打つ手がなくなったということで、10月9日には退院させられてしまい。もっと大きな病院の外来の紹介状をもらって、そこに通うことになりました。
 そこでは、総合的にいくつもの科の診察を受け、どうやら、かなりの難病なのではないかということが分かり、「指定難病」の補助を受けるための申請もさせられました。ただ、それも10月24日に内視鏡検査を受けたときにかなり症状が悪化し、そのままその大病院に入院することになったのです。その後は、ずっと絶食で点滴だけの生活が1ヶ月以上続きますが、最近になってやっとその難病のために有効とされる高価な薬の効果が表れてきて、食事もできるようになり、めでたく今日退院の運びとなったのです。半年以上に渡った闘病生活に、やっと一区切りがついた、という感じです。
 その間、私はほぼ毎日病院に通いましたね。何かと贅沢な患者で、色々と持ってくるものをリクエストしてくるのですね。それらを探したり、買いに行ったりして届けます。洗濯物も持ち帰って、洗って渡します。もちろん、食事は私一人ですから、久しぶりに自炊生活をやってみましたよ。これは結構楽しみながらやれましたね。キャベツの千切りなんか、かなり上達したのではないでしょうか。
 それと、そんなときのニューフィルは、まさに私にとってはとても「楽しい」場になっていました。もちろん、その「楽しみ」は、他の人の苦痛や嫌悪感の上に成り立っているものであることなど決して許されませんから、まず自分がそれだけの技量をしっかり維持するために必要な修練はどんな時でも欠かさずに続けるべきだと、いつも思っています。それも含めての「楽しみ」だから、長続きしているのでしょう。たぶん。
by jurassic_oyaji | 2018-12-22 23:23 | 禁断 | Comments(0)
「テヌート」だと終わった気がしません
 おとといからニューフィルでは春の定期演奏会へ向けての練習が始まったわけで、まずはメインの「幻想」を軽く流していましたね。実は、これは2回目の練習で、「第9」の練習が始まる前に、1回だけ通したことがあったのですね。その時から、練習指揮者はやたらとこの曲の表情記号にフランス語を使っていたのが気になっていました。なんか、指揮者が使っている楽譜には、イタリア語ではなくフランス語で、そんな記号が書いてあるみたいなのですね。
 でも、我々は一応「ベーレンライター版」と書いてあるパート譜を使って演奏しているので、それが最新のものだと思っていますから、そこにイタリア語で書いてあれば、それがスコアにも書いてあるはずなのにな、と、ちょっと不思議だったんですね。というより、ベーレンライター版のスコアもしっかり買ってあったのですが、音符の違いなどはチェックしていても、表情記号にはあまり構ってはいなかったのですよ。
 それで、そんなところを演奏しながらスコアを見てみると、確かにフランス語で書いてありました。もちろん、それは間違っていたのではなく、パート譜ではフランス語をイタリア語に「訳して」あったのですね。どちらの言葉でも言いたいことは一緒ですから、それで演奏する分には何の不自由もないのですよ。
 念のため、自筆稿はどうなっているのか見てみました。こんなのは、IMSLPで簡単に閲覧できますから、便利ですね。それには、もちろんフランス語で書いてありましたね。それで、印刷譜はどうなっているのか見てみると、そこにはブライトコプフの旧全集と、ベーレンライターの新全集の両方のスコアがありました。新全集ももう見られるようになっていたんですね。
 そこでは、旧全集がフランス語をイタリア語に直してありました。これが、最近まではそのまま使われていたのでしょうね。
c0039487_22130023.jpg
もちろん、新全集はきちんとフランス語に「戻して」ありました。
c0039487_22130086.jpg
 ただ、なぜか、旧全集は「練習番号」(1,2,3・・・)がつけられているのに、新全集では「練習記号」(A、B、C・・・)になっていますし、その場所も変わっています。
 つまり、この作品のスコアの場合、全く異なる場所に「番号」と「記号」がつけられている2種類の楽譜が存在しているのですよね。ですから、国内版だと、音友では「番号」が付いていますし、全音になると、ご丁寧に「番号」と「記号」が両方ともつけられているのですよ。
 これは、とても困ったことですね。何かの都合で別の版のスコアしかもっていない人同士がディスカッションするときは不便でしょうね。普通は、新しい校訂版ができたときには、以前の版と同じ番号なり記号なりをつける、というのは、ほぼ不文律のようになっていたのではないでしょうか。例えば、ベートーヴェンの交響曲であれほど騒がれたベーレンライター版ですら、その練習記号に関しては従来のものをしっかり踏襲していましたからね。あとは、ブルックナーのノヴァーク版も、ハース版と同じになっていますね。
 いや、ブルックナーの場合は、そもそも同じ版下を使っていて、違うところだけ書き換えているだけですから、そうせざるを得なかったのでしょうけどね。
 ですから、「幻想」のパート譜も、もしかしたら同じような事情があったのではないでしょうかね。今使っているパート譜には、「ベーレンライター版」と同時に「ブライトコプフ版」というクレジットもあるのです。つまり、ブライトコプフがベーレンライターのリプリント版を出しているということなのでしょう。ですから、ベーレンライターがスコアの校訂を終えてパート譜を作るときに、それまであったブライトコプフ版のパート譜をもとにして、必要なところだけ直していたのではないでしょうか。
c0039487_22125948.jpg
 だから、このパート譜を見ると、「番号」は消えていて、その代わりに「記号」が手書きで入っています。その時に、表情記号も別にフランス語に戻すこともないだろうと、イタリア語のままにしておいたのではないでしょうか。
 その流れで、曲の一番最後も自筆稿と新全集は「テヌート」という「文字」が書いてありますが、
c0039487_22130027.jpg
c0039487_22130002.jpg
旧全集と、そしてそれをそのまま流用したパート譜には「フェルマータ」の記号が書かれています。
c0039487_22125923.jpg
 ですから、それを見た練習指揮者は、鬼の首を取ったように「ここは長く伸ばさないで音符通りに切ってください」という指示を出していましたね。
 しかし、間違いなく新全集を使って演奏しているはずの録音を聴いてみましたが、ガーディナーもラトルも、そしてノリントンも、この最後の音は延々と伸ばしていましたよ。つまり、旧全集で「tenu」が「フェルマータ」になっていたのは、しっかり意味があったのではないでしょうか。イタリア語の「tenuto」の意味は、「その状態で保持する」で、「fermata」の「止まる」という意味とかなり近いものがありますから、ベルリオーズの中ではこの2つのものは同じように感じられていたのではないか、と思うのですが、どうでしょうか。なんたって、「レ・シエクル」のロトの録音だって、ここはしっかり伸ばしているのですからね。
by jurassic_oyaji | 2018-12-21 22:17 | Comments(0)