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Love Story, Happy Sound of Ray Conniff
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Ray Coniff and the Singers
VOCALION/CDLK 8553(hybrid SACD)


このところ夢中になっているDUTTON/VOCALIONのサラウンドSACDですが、そのカタログにはなんと「レイ・コニフ・シンガーズ」のアルバムがありました。
このグループのリーダーのレイ・コニフはもともとはジャズのトロンボーン奏者でしたが、編曲の腕を見込まれて多くのバンドで編曲に携わっていました。それが、1955年にコロムビア・レコード(CBS)でA&Rとして活躍していたミッチ・ミラー(自身も男声合唱団を率いてアーティストとしても有名)の目に留まり、その年にシングル・レコードをリリースすることになります。それは、ビッグバンドにコーラスが加わるという、それまでにはなかった画期的なスタイルで、スタンダード・ナンバーを演奏するというものでした。コーラスは歌詞は歌わず、楽器の一部としてホーン・セクションとユニゾンでスキャットを歌っていたのです。
これは大ヒット、翌年にはアルバムもリリースされ、結局レイ・コニフ自身が亡くなる2002年までに100枚以上のアルバムが制作されることになるのです。
そんなにたくさんのアルバムを作れたのは、演奏されていたのがオリジナルではなくほぼすべてがカバー曲だったためです。それは、初期にはスタンダード・ナンバーでしたが、やがて最新のヒット曲を直ちにカバーするようになり、それらはイージー・リスニングとして多くの人に支持されました。
その編曲は、あくまでもさわやかでハッピーなものでした。リズムもきっちり8ビートで統一され、コーラスはあくまでそのタイトなリズムの上で、適度にジャジーなシンコペーションやフェイクを加えたメロディを歌っています。それはバックのオケのホーンと見事にシンクロして、軽快なグルーヴを醸し出しています。
録音も、それこそ「ミッチ・ミラー合唱団」譲りのたっぷりエコーがかかったゴージャスな仕上がりです。ですから、1970年代にはこのレーベルの戦略だった「4チャンネル」の波に乗って、多くのアルバムがノーマルLPとクワドラフォニックLPの2種類のフォーマットでリリースされていたのも当然です。エンコードはもちろん「SQ」でしょうね。
ネットで検索したら、当時のCBSソニーがSQ4チャンネルのデモ用に作ったコンピレーションアルバムが見つかりました。その中に、このレイ・コニフのトラックもあったので、おそらく日本でも実際に4チャンネルのアルバムがリリースされていたのでしょう。
昨年から今年にかけて、DUTTON/VOCALIONからそのレイ・コニフの4チャンネルのアルバムが、マルチチャンネルSACDで何枚かリリースされました。アルバム自体はすでに多くのものがCD化されていて、それらは2枚のLPを1枚のCDに収録した「2 on 1」でした。ほとんどのアルバムは11曲ぐらい入って30分程度の収録時間ですから、CDなら余裕で2枚分は入ってしまいますからね。
今回も、カップリングは変わっていましたが、やはり「2 on 1」で、1971年に録音された「Love Story」と、1974年に録音された「Happy Sound of Ray Conniff」という2枚のアルバムが全て入っています。
いずれも、すでにCDで持っていたものですから簡単に比較できますが、その違いは歴然たるものでした。もちろん、コーラスはリアに定位していたり、時折フロントにも一部が残って掛け合いをするなどというサラウンドならではの魅力があるのは当たり前ですが、音自体がCDとは比べ物にならないほどクリアに変わっていたのです。
最初に彼らを聴いたのは、LPによってでした。その、特に外周付近のトラックは、とてもヌケが良くてスピーカーのセッティングのテストなどによく使っていたものでした。ところが、それがCDになった時には、なんとものっぺりとした音になってしまっていたので、がっかりした記憶があります。それが、今回のSACDではまさに最初のLPの音に戻っていたのですよ。
LP並のクオリティとサラウンド、もうすっかりCDが色あせて見えるようになってしまったので、残りの3枚のSACDも全部買ってしまいました。これは、かつてなかったほどの幸せな出来事です。

SACD Artwork © Vocalion Ltd

by jurassic_oyaji | 2019-02-28 21:33 | ポップス | Comments(0)
さよならドビュッシーとか
 最近、アマゾンで本を買おうとすると、別に送料が必要な場合がありますね。確かに、今までも雑貨や家電などでアマゾン直ではなく、出店先からのものだと送料がとられることがありましたが、本の場合は間違いなく直で、送料無料だったはずです。なんたって、ここは最初は「ネット書店」だったんですからね。でも、今では新刊の書籍でも、別の出店者から送料を払って買わなければいけないようなこともあるようです。
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 この本も、そんなものでした。文庫本ですから、本体の半分近くの送料がかかるのはあまりにも理不尽なので、街に行ったついでに書店で買ってきましたよ。もう1冊、同じようなケースがあって、やっぱり書店で買ったのですが、どちらもたくさん平積みになっていましたね。
 それがどういう仕組みでそういうことになっているのかはわかりませんが、そこまでして買ったというのに、この本は全然面白くありませんでした。というか、最初はこの作家の日常的な作業がとても興味深く読めていたのですが、読み進んでいくともう同じことの羅列になってくるのですね。それは当たり前の話で、基本的にこれは「日記」で、まあ作家さんことですから多少の手直しはあるのでしょうが、そこには読者を楽しませようという気持ちはほとんど込められていないはずです。もちろん、読者にもそれが分かっているから、買ってまで読もうという気にはなるのでしょうが、あまりにも退屈なのでやはり半分読むのが精いっぱい、ついに挫折してしまいました。
 退屈であるのと同時に、おそらく本当のことなのでしょうが、ここで述べられているこの作家の制作過程というのが、あまりにも夢がないのも、読み続けられない理由だったのかもしれません。なんでも、この人は書く前から1冊分の細かいところが一字一句出来上がっていて、あとはそれをタイピングするだけで本が出来てしまうという、モーツァルトみたいなことができるのだそうです。というか、そのぐらいの能力がない限り、第一線で作家として活躍することはできないとまで言い切っています。まあ、確かにそのぐらいの才能は必要なのかもしれませんが、我々読者がそんな風に作られたものを読まされているということに、なんだかうすら寒いものを感じてしまいます。
 つい最近も、この人の本を読んだのですが、その結末はいくらなんでもという、ありえない「どんでん返し」があって、とてもついていけませんでした。音楽ものとか、結構好きだったのですが、もう何も読む気にはなれません。
 その日記にも登場する東野圭吾も、本質的には同じような「作業」を行っているのでしょうが、出来上がったものは全く異なっています。その違いはいったい何なのでしょう。
 彼の本は、もう文庫化されたものは全部読んでしまったと思っていたのですが、この間本屋さんで結構昔に書かれたものが映画化されるというので、新しいカバーになって平積みになっていました。そのタイトルが、なんだか読んだことがないような気がしたのですよ。パラパラと中を拾い読みしても、前に読んだような気は全くしなかったので、買って帰りました。もし、読んでいたら確実にこのぐらいのところで思い出すはずだ、というところまで来たのですが、そこで描かれていたのは、は全く初めて目にする光景だったので、安心して読み進んでいました。
 そこで、一応確認のために本棚を調べてみました。そうしたら、あったんですね。全く同じ文庫本が。やってしまった、と思いました。まあ、でも、結構面白くて結末が楽しみなので、このまま読み進むことにしましょうね。「再読」ってやつですよ。
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 左が昔買った本のカバー。奥付は2008年の第45刷、右が今回、2018年の91刷です。キャッチコピーまで一緒ですね。まあ、10年も経てば、本の内容などはすっかり忘れてしまうものなのでしょう。
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 右のカバーは、実は「タスキ」だったんですね。確かに、いくらか幅が短くなっています。
by jurassic_oyaji | 2019-02-27 23:24 | 禁断 | Comments(0)
MOZART/Symphonies 40&41
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Andrew Manze/
NDR Radiophilharmonie
PENTATONE/5186 757(hybrid SACD)



マンゼと北ドイツ放送フィル(ハノーファー)は、この間までメンデルスゾーンの交響曲集をリリースし続けていましたね。それらが録音されたのは、2016年1月から2017年6月までの間でした。それと同時期の2017年2月に録音されたのがモーツァルトの交響曲第40番、そして、その後2018年の3月に録音されたのが交響曲第41番です。いずれもコンサートのライブ録音で、北ドイツ放送の制作によるものです。
もうこんな感じで、マンゼは漫然とコンサートをこなしているうちに、いつの間にかツィクルスが完成している、という幸福な環境にあるのですね。今のところ、モーツァルトに関してはこれからツィクルスに発展していくかは不明です。このアルバムの評判次第、といった感じでしょうか。
今でこそ、フツーのシンフォニー・オーケストラのシェフとして、さまざまな時代のオーケストラ作品を指揮しているマンゼですが、かつてはヴァイオリニストとして、ピリオド楽器のフィールドでとても異色なアプローチを試みていた演奏家でした。モーツァルトでもそのスタイルは変わらず、ソナタ協奏曲ではとてもアグレッシブな演奏を聴かせていたはずです。
ですから、彼が指揮者となった時には、どうしてもそのような「特色のある」演奏を期待したくなってしまいます。しかし、実際にそのような録音を聴いてみると、それはあまりにも「フツー」のものだったので、ちょっと失望してしまいました。
ただ、メンデルスゾーンを聴き続けていくうちに、どうやらその「フツー」さが、今のマンゼのスタンスなのではないか、と思うようになってきました。もしかしたら、彼はアーノンクールやノリントンの轍は踏まないようにしてきたのではないか。と。
今回のモーツァルトでは、そのあたりがとてもうまくオーケストラともかみ合っているような印象を受けます。ここには、モダン・オーケストラにピリオド楽器の演奏法を導入した時の不自然さが、全く感じられないのですね。
確かに、弦楽器はほとんどビブラートなしで演奏していますが、そこからはピリオド楽器にありがちなギスギスとしたところが全く感じられません。特に、どちらの曲でも第2楽章の弦楽器のサウンドは、ビブラートがかかっていないにもかかわらず、とても芳醇なものになっています。
そこに加わるのが、普通の奏法でモダン楽器を演奏している木管楽器のプレーヤーたちです。彼らは、きっちりしたハーモニーで弦楽器に色を施すと同時に、ソロの受け渡しでも見事な均質性を披露してくれていました。特に心地よいのがフルートのピッチです。ピリオド楽器のオーケストラでいつも不満に感じてしまうのがこのパート、確かに、そこで的確な演奏を聴かせてくれる名手がいないわけではありませんが、モダン・オーケストラの心地よさに慣れた耳には、わざわざ無理をしてそんなものを聴くこともないようにも思えてしまいます。
そんなことは、ここでは全く感じることはありません。何のストレスもなく、ほどよいストイックさを伴ったモーツァルトを味わうことができるのです。
41番になると、そのサウンドがさらに明るいものへと変わります。それは、ティンパニがとても目立つようにフィーチャーされているためです。これもおそらく、バロック仕様のチマチマした楽器ではなく(改めてホグウッドとAAMの録音を聴いてみましたが、そこではティンパニの音がほとんど聴こえませんでした)、それこそブルックナーあたりで使われるような大きな楽器なのではないか、と思えるほど、その音は迫力満点に響きます。
まるで、ファッションが一回りして、昔に戻ったようなしっとりとしたモーツァルト、しかしそこにはマンゼならではの隠し味もしっかり込められていました。例えばこの曲のフィナーレのコーダが始まる前のブリッジの部分などでは、今まで誰からも聴いたことのないような不思議な音楽が出現していました。

SACD Artwork © Pentatone Music B.V.

by jurassic_oyaji | 2019-02-26 22:48 | オーケストラ | Comments(0)
トリカラもおいしそう
 ニューフィルの今度の定期演奏会のチラシとポスターがみんなに配られたのは、先週の木曜日のことでした。それから10日経って、私のところには「配り終えました」というような連絡がぼつぼつ寄せられるようになっています。皆さん、本当に誠実に仕事をやってくださるのには、感謝しかありません。
 私はというと、もらった日に近くの旭ヶ丘市民センターと、お隣の青年文化センターには置いてきて、次の日にチケットを県民会館に置きに行ったついでに戦災復興記念館と片平市民センターに行っただけで、あとは休日に指揮者練習があったりしたので、他のところは行けていませんでした。
 今日は、晴れて1日フリーになったので、その残ったところを全部回ろうと思いました。いや「全部」といってもたったの10か所ですから、楽なものです。ひところは、私だけで30か所とか回っていたこともありましたから、全部回るのにはかなり時間がかかったものですが、今ではどんどんほかの人が引き受けてくれるようになったので、私の担当は劇的に減り、今回は全部で14か所までになっていました。
 ただ、その、他の人が引き受けてくれたところというのは、意外と行きやすいところだったので、それがなくなったらもう見事にバラバラな地域に分散されるようになってしまいましたね。西は広瀬文化センター、東は東中田市民センターまで広がっていますからね。
 ですから、そこを効率よく回れるように、前もってルートを決めておきました。スタート地点は広瀬、そこから旧48号線を仙台方向に走って落合市民センター。そこから仙台西道路に出て、トンネルを抜けたら右折してさらに大橋を渡って川内に入り、博物館、萩ホール、美術館と回ります。
 そのあとは、澱橋を渡って北上、北四番丁を東に進んで福沢市民センター、そこから北六番丁を戻って宮町を南下、東口方面に走ってパルシティを経由し、今度は旧4号線をずっと長町まで南下して、あすと長町の中を通り、中田市民センター、東中田市民センターと回り、最後は帰り道の途中にお昼ご飯を食べるために旭ヶ丘のレストランTズに行ってミッション完了となります。
 家を出たのは9時40分でした。広瀬に着いたのが10時5分でしたから、好調なスタートでしたが、川内に着くころには10時半になっていました。そこで、萩ホールに行ったら、なんだか駐車場に柵が出来ていて、車が入れないようになっていましたよ。
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 どうやら、工事中のようでした。現場の案内の人に聞いたら、今は閉館していて、4月過ぎにならないと再開しないのだそうです。後で調べたら、ホールの天井の改修工事をしているのだそうです。まだ出来てからそんなに経っていないと思っていたのですが、結構くたびれていたんですね。でも、ニューフィルの秋の定期の頃には、もうちゃんと使えるようになっているのでしょうね。
 それから、東口から中田方面への道は、やはり結構な時間がかかりましたね。ちょうど12時ごろに太子堂のあたりで、左手に「かつ膳」というおいしそうな看板が見えました。その建物を見ると、なんだかいい感じのお店、ここでお昼を食べてもいいなと思いましたが、駐車場が一杯のようでしたね。
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 ですから、これは帰り道に寄ってみることにして、まずは私が行くのは初めてとなる中田と東中田の市民センターです。
 でも、初めてだと思っていた中田市民センターは、確かにこの分かりにくい道には通った記憶がありました。考えてみたら、10年ぐらい前に合唱団に入っていた時のコンクールのリハーサルを、ここでやっていたのを思い出しました。ここで練習してから名取のホールに行ったんでしたね。
 帰り道には、お約束通り「かつ膳」でロースかつ定食を食べてきました。
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 温泉卵が付いているというのが謎ですが、ロースかつはなかなかおいしかったですね。何よりもボリュームがすごいですね。200グラムぐらいはあったでしょうか。もちろん櫻家には及びませんが、かつせいのレベルには十分達しています。これで900円はお買い得。また来たくなりました。きっと、半年後も寄っていることでしょう。
 ですから、Tズは今日はやめにして、あさっての練習の前に行ってくることにしましょう。それで、私の分は終わりです。
by jurassic_oyaji | 2019-02-24 21:42 | 禁断 | Comments(0)
RAVEL/Daphnis et Chroé
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冨田勲(Synth)
VOCALION/CDSML 8554(hybrid SACD)



レーベルは「VOCALION」ですが、先日のブーレーズの「オケコン」の「DUTTON」と同じスタジオで、マイケル・ダットンという人がリマスタリングを行っているSACDです。今回のアイテムは冨田勲によるラヴェルの作品集、もちろん、富田が自分一人でモーグなどのシンセを多重録音して制作していた音源です。かつてはアメリカのRCAから全世界へ向けてリリースされ、ビルボードのチャートをにぎわせていたアルバムたちの一つです。それが、SONYからライセンスを得てSACDを作っているこのスタジオの網にかかりました。それは、RCAがSONYに吸収されてしまったから。そのために、あの頃は日本でもRCAの社員が大量にリストラされ、九州のド田舎に引っ込んでしまった人もいたようですが、そのおかげでこんなに面白いサラウンドSACDがリリースされるようになったのですから、世の中、何が幸いするかわかりません。
今回のリマスターにあたっては、アメリカ盤ではなく日本盤のタイトルと(アメリカ盤は「Bolero」)とジャケットが使われていました。それが、この磯野宏夫によるイラストです。お気づきのように、これは一種の「だまし絵」になっていますね。これはもちろん、「ダフニスとクロエ」(第2組曲)の世界を再現したものなのでしょう。遠くには中間部の「無言劇」で大ソロを吹くフルーティストまでリアルに描かれていますね。
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ただ、このフルートは、拡大してみると指孔の位置がとても狭いところに集まっているようになっているのが、気になります。
冨田は、この「ダフニスとクロエ」を作るにあたっては、ラヴェルが書いた楽譜をほぼ忠実に再現しているようでした。というか、もう少し時代が進んで、MIDIなどを使って自由にオーケストラの個々の楽器が再現できるようになると、シークエンス・ソフトさえあれば、スコアをそのまま入力すれば簡単にラヴェルのサウンドが再現できるようになってしまいます。冨田の時代でも、かろうじてローランドの「MC-8」というシークエンサーが出来ていましたから、それらの細かい音符を入力するのはそれほど面倒なことではなかったはずです。
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その結果、冒頭の木管の、人間が演奏するととてつもなく難しい細かいフレーズのループは、いともさりげなく完璧な音となって聴こえてきます。ただ、それはあまりに完璧すぎて、逆にラヴェルらしくなくなっています。これを聴くと、もしかしたら、ラヴェルはわざと吹けそうもないような音符を書いて、それをシャカリキになって演奏するときに生まれる時の微妙なずれ具合まで計算して、最終的なサウンドを予想していたのではないかとまで思えてしまいます。
次の「ボレロ」では、冨田は最初から楽譜に忠実に「演奏」を行うことを諦めてしまっているようです。原曲の最大の魅力は、全く同じメロディを楽器やオーケストレーションを変えてただひたすら繰り返す中から、サウンドの変化が味わえることなのではないでしょうか。それを実現させるために、ラヴェルは細かく楽器の組み合わせを変えて、巧みに音をブレンドしているのです。
ところが、冨田は最初のうちはそのプランに従って、音源を細かく変化させているようですが、それだけではなかなか「変化」がつけられないとなると、そこに新たなメロディを加えるなど、別の小技を挟んでくるようになります。ただ、そこまでしても、結局もうアイディアが底をついてしまって、原曲よりもかなり早い段階で曲を終わらせてしまっています。オリジナルのオーケストレーションにシンセが「負けて」しまったんですね。ですから、エンディングも原曲のようなスリリングな展開は起こらず、だらだらとフェイド・アウトで終わらせてしまっています。
ただ、そんな退屈な編曲も、サラウンドで音たちが空間を動き回っているのを聴いていると、俄然魅力的になってきます。このミキシングを行ったのは冨田自身のようです。

SACD Artwork © Vocalion Ltd

by jurassic_oyaji | 2019-02-23 22:49 | オーケストラ | Comments(0)
トイレの工事もやってました
 この間のニューフィルの指揮者練習は一番町のエルパーク仙台というところで行われました。ここは本当に街のど真ん中ですから、近くの駐車場にずっと車を止めたりしていたら、何千円もかかってしまいます。まあ、最高料金の設定があるところでもまず1000円は超えてしまいます。そういうところは結構遠いですしね。ですから、私は職場の駐車場(もちろん無料)に車をおいて、そこから地下鉄の駅まで歩き、地下鉄で会場に向かうことにしています。なんたって、この会場は地下鉄駅直結、改札を出るとすぐ目の前にそこまで続くエスカレーターがあるんですからね(途中で乗り換えはありますが)。
 もちろん、その間には2駅分ばかり地下鉄に乗ることになるので、その分の運賃は必要です。でも、そんな近くだとたしか180円ぐらいで行けたはずですから、大した額ではありません。
 ところが、いつもSUICAで改札を通っているので、料金はあんまり気にしてはいませんでしたが、今回ちょっと見てみると、なんだか「200円」もかかっているようなんですね。いつの間にか値上げされていたようですね。いや、本当にたまに、こんなことでもないとまず地下鉄には乗りませんから、上がったことなんて気づきもしませんでしたよ。調べてみたら、私が乗ったところから3駅までは200円、その先は250円になるようです。ということは、1駅乗っただけでも200円ですね。その間の時間は1分ですから、1分で200円、なんか、ものすごく高いような気がしませんか?それこそさっきの駐車場だったら40分で200円ですからね。いや、そういう計算はちょっとおかしいかも。
 久しぶりに地下鉄に乗ると、料金だけでなくいろいろと変わっているところが見つかります。どうやら、今ではすべての駅で上りと下りのエスカレーターが付くようになったようですね。つまり、降りたところから近いエスカレーターが下りだったら、その反対側に行けば上りに乗れるようになったみたいです。そういえば、そんな大掛かりな工事をやっていたような。
 それと、ホームの案内板も、より解像度の高いディスプレイにリニューアルされていましたね。これだと今どこまで次の車両が来ているかがすぐ分かりますね。そして、その下にはいろいろな案内の文字情報が流れています。そこで目についたのが、こんな呼びかけです。
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 文字はスクロールされて全文が読めるようになっているので、写真では2枚になってしまいました。
 「エスカレーターは、歩かず立ち止まって、片側を空けずにご利用ください。」ですよ。まあ、最初のフレーズは「エスカレーターは」ではなく「エスカレーターでは」でしょうが、それでもこれは短い言葉で的確に訴えたいことが要約されている名コピーなのではないでしょうか。ですから、ここからはおのずと「立ち止まらないで利用する」ことはいけないことなのだ、ということがはっきり伝わってくるはずです。要は、「急いでいる人が『歩いて』エスカレーターを利用できるように、立ち止まっている人は片側を空けなさい」といわれ続けてきたこれまでの「マナー」を完全否定していることになるのですよ。
 もちろん、これはすでに長いこと提唱されていたことでした。かつては「東京では左側を空けるが、大阪では右側を空ける(反対だったかな?」ということが、さも東西の文化の違いを象徴することであるかのように語られて、エスカレーターを使う人たちは嬉々としてそれに従っていたのですが、ある時から、そんなのは何の根拠もないことだし、そもそもエスカレーターをそのように使うのは機構的に間違っていることが知られるようになってきました。なんせ、エスカレーターを作っているメーカーが、そのようにきちんと言っていたのですから、その時点でこんな悪習はなくなってしまうはずだったのに、いまだにそんなアホな使い方をしている人は後を絶ちません。
 ですから、ついにこんなところでも、「そういうことはやめようよ」という主張が行われるようになったのでしょう。普通に考えれば、こういうところに書かれるのは、誰でも知っているごく当たり前のお約束であるはずです。ですから、こういうことは「自転車は道路の左側を走りましょう」と同じぐらい、当たり前のことなのです。
 でも、相変わらずエスカレーターで普通に右側を歩いて上っていく人は、なくなりません。これは、自転車が逆走しているのと同じほど恥ずかしい、そして、危険なことです。
by jurassic_oyaji | 2019-02-22 22:12 | 禁断 | Comments(0)
BERLIOZ/Harold en Italie, Les Nuits d'été
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Tabea Zimmermann(Va), Stéphane Degout(Bar)
François-Xavier Roth/
Les Siècles
HARMONIA MUNDI/HMM 902634


このレーベルのCDにはこんなシールが貼られていました。どうやら今年は、ベルリオーズ・イヤーだったみたいですね。亡くなったのが1869年ですから、「没後150年」ということになるのでしょう。いやあ、気づきませんでした。
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ただ、いまいち盛り上がりに欠けるように感じられるのは、なぜなのでしょう。ベートーヴェンなどは、来年の「生誕250年」に向けてもう今から大騒ぎが始まっているというのに。
まあ、ベートーヴェンだったらまずは記念に交響曲全集を作ったりするのでしょうね。でも、ベルリオーズの場合は確かに「交響曲」と名付けられた作品は4曲ほど作っていますが、今のところそれらをまとめて「全集」を作った人はいないのではないでしょうか。実際は、ベルリオーズのほぼすべてのオーケストラ作品を録音したコリン・デイヴィスとシャルル・デュトワは、「交響曲」を全曲録音はしていますが、それだけをまとめた全集を作ってはいないはずです。
というのも、ベルリオーズの場合の「交響曲」はそれぞれに個性的で、編成も異なっていますから、それらをまとめるという発想があまり湧いてこないのでしょうね。なんせ、最初に作られたのはあの「幻想交響曲」ですから、スタート時からそれまでの交響曲とはかけ離れた、規格はずれのぶっ飛んだものでした。次の交響曲が今回の「イタリアのハロルド」となるのですが、これにはヴィオラのソロが加わるので、形としては「協奏曲」ですしね。さらに3番目の交響曲では「劇的交響曲」というタイトルで、最初と最後の楽章はソリストと合唱が加わった大規模な「オラトリオ」になってしまいます。そして、最後の交響曲は「葬送と勝利の大交響曲」という、知る人ぞ知るレアな曲、基本的にブラスバンドによって屋外で演奏される作品です。オプションで弦楽器を加えることもありますが、やはり普通のオーケストラが演奏するには敷居が高いでしょうね。つまり、こんなヘンな曲が混ざっているので、なかなか「全集」は作れないのですよ。
とりあえず、「幻想」にははるかに及ばないまでも、この「ハロルド」もオーケストラの通常のレパートリーには入っています。その4つある楽章の中で、第3楽章の「アブルッチの山人が、その愛人によせるセレナード」だけは、かつてNHK-FMで放送されていた「トスカニーニ・アワー」という番組で一時期テーマ曲として使われていましたから、曲名が分からなくてもこのメロディが記憶に残っている人はたくさんいるのではないでしょうか。これを聴くと、そのときのMC村田武雄さんの声まで思い出してしまうのでは。
今回のロトとレ・シエクルによる新録音では、当然ピリオド楽器が使われています。その弦楽器が、ノンビブラートで第1楽章の序奏を演奏し始めたときには、なにか今まで聴いたことのないようなおどろおどろしい情感が伝わってきました。しばらくしてツィンマーマンのヴィオラ・ソロが入ってくると、それも極力ビブラートを抑えたストイックな響きが、なんとも印象的に感じられます。それが、「quasi niente(音がないかのように)」という、「幻想交響曲」にも登場するとんでもない指示の部分では、本当に無音一歩手前といったとても緊張感のあふれる演奏を聴かせてくれます。
第2楽章の「夕べの祈祷を歌う巡礼の行列」では、「Canto religioso(宗教的な歌)」という部分でソリストはスル・ポンティチェロ(駒のそばで弾く奏法)でアルペジオを弾き続けるのですが、それがあまりにピュアな音色だったので、最初はオンド・マルトノのような電子楽器でも使っているのかと思ってしまったほどです。そもそも、そのバックに流れる木管楽器の透き通ったハーモニーが、まるで電子音のように聴こえていましたからね。
そんな感じで、もうびっくりするような音色のオンパレードの中、とてもきびきびとした物語が進んでいくのでした。

CD Artwork © harumonia mundi musique s.a.s.

by jurassic_oyaji | 2019-02-21 21:10 | オーケストラ | Comments(0)
「ワーナー」のレーベルです
 きのうは、ニューフィルはパートごとの分奏の日、木管はトレーナーの先生を呼んで「幻想」全曲という予定でレッスンがありました。ただ、5つある楽章の中で、第2楽章にはファゴットが全く出番がないので、それは最後にやろうということでとりあえず第4楽章あたりから始めました。
 しかし、この曲は思いのほか難所が多く、1か所で引っかかるとなかなか先に進みません。結局、第4楽章→第5楽章→第1楽章まで行ったところで、第3楽章に手を付ける前に時間が一杯になってしまいましたよ。もちろん、ファゴットも先に帰るわけにはいきませんでした。
 ところで、この「幻想交響曲」を作ったベルリオーズは1803年に生まれて1869年に亡くなっているので、今年は「没後150年」になるということに、つい最近気が付きました。この曲をやることを決めたときには、誰もそんなことには気が付いていなかったはずです。というか、分かっていればチラシにも入れていたのに。まあ、きのう送った「企画書」にはかろうじて間に合いましたから。
 先日の指揮練での「幻想」のリハーサルのときに、篠崎さんは雑談で昔聴いていたミュンシュとパリ管のLPレコードでは、第3楽章の途中で盤を裏返さなければいけなかったというお話をされていましたね。篠崎さんが聴いていたのは国内盤でしょうから、「エンジェル」レコードだったはずですが、最初にEMIからリリースされたときのジャケットはこんなのでした。
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 ちょうどその裏返す場所(↓)には、フルートのソロがあるので、その話は私のタイミングがちょっとのろくて止められた時だったと思います。68小節目の赤線の部分で「A面」が終わるので、それを裏返すためにここで一旦音楽が止まってしまいますから、それが刷り込まれていてなんだかここで休まなければいけないような気になるのだそうです。もちろん、CDになってからはそんな必要はありませんから、普通に楽譜通りの演奏が聴けるようになったのですけどね。
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 ところが、その同じ録音のCDというか、新しくリマスタリングが行われたSACDが手元にあったので聴いてみたら、その場所にはしっかり4秒間の「空白」があったのですよ(05:05から05:09までの間)。
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 これは、「マスターテープから直接リマスタリング」というのが売りのSACDだったのですが、その「マスターテープ」というのは、おそらくカッティング用のマスターでしょうから、この曲の場合はA面用とB面用との2本が用意されていたのでしょう。その1本目は、当然第3楽章の68小節目の赤線の前で終わっていますから、その後にすぐB面用の2本目の頭をつなげなければいけません。しかし、それを行ったエンジニアはスコアが読めなかったのか、そもそもこの曲を知らなかったのか、そのつなぎ目に空白を設けてしまったのですね。
 実は、もう1枚、2001年にデジタル・リマスタリングが行われたCDもあったので聴いてみたのですが、やはり同じ場所に同じ長さの空白がありました。その時のリマスタリング・エンジニアと、SACDのエンジニアは同じ人でしたね。
 これは、NMLにも同じ音源があったので聴いてみたのですが、それも全く同じ状態でした。それはどんなマスターが使われているのかは不明ですが、現在入手できるデジタル・データは、すべてこの「空白入り」のものになっているということになりますね。
 でも、篠崎さんのようにLP時代の「幻想」を聴いて育った人だったら、逆にこれには何の違和感もないかもしれませんね。
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 イアン・ジョーンズというそのエンジニアも、もしかしたらそういう世代の人なのかもしれませんね。
 EMIがなくなって、今ではこの録音は「ERATO」というレーベルでリリースされています。NMLの音源もこれでしょうから、これにもしっかり「空白」が入っているんでしょうね。
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by jurassic_oyaji | 2019-02-20 22:03 | 禁断 | Comments(0)
BARTOK/Concerto for Orchestra, The Miraculous Mandarin
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Pierre Boulez/
New York Philharmonic
DUTTON/CDLX 7360(hybrid SACD)



去年の8月には、こんなレビューを書いていました。1972年に「4チャンネル」で録音され、翌年ノーマルLPとSQクワドラフォニックLPでリリースされたバルトークの「オーケストラのための協奏曲」がマルチチャンネルのSACDになって出ていたので聴いてみたら、それは本来のミックスとは全然違っていてがっかりした、というものですね。その時にぜひこれを録音したメーカーに正規の形でのSACDを出してほしいとお願いしていたのですが、そんな願いが半年も経たずにかなってしまいました。
とは言っても、今回オリジナルの4チャンネル・マスターをそのままマルチチャンネルSACDにトランスファーしたのは、それを録音したSONY(当時はCOLUMBIA)ではなく、「DUTTON(ダットン)」という、イギリスのヒストリカル専門のレーベルだったんです。
まあ、すでに録音されてから半世紀近く経った音源ですから、これももはや「ヒストリカル」という範疇に入ってしまうのですね。このレーベルは、メインはジャズやポップスのようですが、クラシックも扱っていて、最近は1970年代の「4チャンネル」の音源を、集中的にサラウンドSACDで復刻してくれていますから、ここのサイトはほとんど「宝の山」といった感じでした。それも、SONYのカタログが多数取り上げられていますので、全部欲しくなってしまうほどです。本家のSONYはSACDそのものもほとんど見放していましたが、こんなところに「救う神」がいたなんて。
このSACDは、ライナーノーツにも、オリジナルのSQのLPに掲載されていた、プロデューサーのトーマス・Z・シェパードのライナーそのものが転載されていました。そこには、こんなテーブルもありました。
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この録音では8チャンネルのマルチトラック・レコーダーが使われていますが、それぞれの楽器を録音したマイクの入力が、どのチャンネルに振り分けられているのかが記されています。これを見ると、まさに当時のSONYのマルチマイクの方式がよく分かります。最近の2Lのように、基本的にセンターアレイに付けたチャンネル数だけのマイクによる「ワンポイント」とは正反対のやり方でしたね。
そこで、指揮者の周りに楽器を配置して、その指揮者の場所で聴いているような音場設定の「オケコン」を初めて聴くことになりました。これはもう、マルチマイクならではのくっきりした音場が、まさに先ほどのテーブル通りの位置に広がっていました。そして、非常に大切なことですが、それは決してスピーカーから割り当てられた楽器が聴こえてくるということではなく、まさにスタジオの中の響きに包まれて、実物大の存在感をもって聴こえてきたのです。例えば、第5楽章の冒頭でホルンパートのソロがリアから聴こえてきますが、その休符の間にフロントからはきちんと残響が聴こえてくるのですよ。
そんな感じで、管楽器の場合は全ての奏者がどこで吹いているかわかるほどのリアリティがありますから、この頃のフルートの首席奏者、ジュリアス・ベイカーがすぐ後ろの手の届く場所に座って演奏しているようで、なんだか不思議な気持ちになれます。
ただ、管楽器と弦楽器は普段演奏しているのとは全然違う、とても離れた場所にいることになるので、それがもろにアンサンブルの乱れとなって表れている場所がかなりありました。弦と管との掛け合いなどが、もう見事にずれまくっていたりしているのですね。これも、別の意味でのリアリティが感じられて、面白いですね。
カップリングは、2002年のSACDと同じ1971年にホールで録音された「マンダリン」でした。こちらも、今回のSACDでは微妙にミックスが変わっていて、より会場の残響成分が増えているようでした。特に、最後のシーンに登場する合唱が、2002年盤ではリアともフロントとも思えるようなあいまいな音場だったのですが、今回ははっきりリアから聴こえてきます。
ただ、マスターテープの劣化までもはっきりわかってしまうのが、皮肉なところです。

SACD Artwork © Vocalion Ltd

by jurassic_oyaji | 2019-02-19 23:50 | オーケストラ | Comments(0)
「朧」というお店
 篠崎さんとの、定期演奏会へ向けての最初のリハーサルが終わりました。私は今回は全乗りだったので、全ての曲で吹かなければいけませんでしたから、とても疲れましたね。何しろ、最初はまず全曲を一通り通していたので、その「本番テンポ」についていくのがとても大変でした。やはり、今までの団内での思いやりのある適度なテンポでの練習とは全く別物の、最初から完成品のテンポを提示されるのですから、これはもうパニック状態です。でも、実際にやってみると、途中で止まってしまうようなことはなく、曲がりなりにもきちんと最後まで通るのですから、大したものです。とても厄介なラヴェルの「スペイン狂詩曲」でさえ、なんとか形になっていたのですから、すごいですよ。
 もちろん、ほとんどの時間は吹いていなければいけませんから、演奏中の写真などはまず撮れないと思っていたのですが、「幻想」の第3楽章の最後の部分ではかなり長い時間のタセットがあるので、そこで席を抜け出して何枚か撮ってみました。
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 これは、ティンパニが「雷」を演奏しているところですね。ヴァイオリンは、まだエキストラが揃っていないので、空席が目立ちます。
 通しが終わった後の小返しでは、もうあちこちで満足のいかないところが露呈してしまったので、篠崎さんは丁寧すぎるほどに何回も何回も演奏させて、完成度を高めようとしていました。ですから、予定の時間はどんどんはみ出していって、結構最後の方では時間が足らなくなっていましたね。
 それでも、1日目のきのうは一応全部の曲をしっかりやれていたのですが、今日の場合はもう前半の「幻想」だけでほとんど1日分の練習時間を使ってしまいましたね。まあ、これが篠崎さんのやり方、新田さんみたいにきっちりと予定通りに仕上げていくのもなかなかスマートですが、こんな風につっかえつっかえ一つのものを土台から作り上げていくという作業も、なかなか楽しいものです。疲れますけどね。
 今回はフランスものということで、音楽に作曲家が込めたであろう具体的なイメージを次々に提示してくださいました。あとは、曲に絡んだ小ネタなど、練習に関係のないことを突然話し始める、というのも、ちょっと和みますね。もちろん、雑談とは言ってもそのベースはもう音楽が好きで好きでたまらないという気持ちですから、とても興味深いものです。
 これはまだまだ序の口、次回からは分奏も加わって、より細かいところまで掘り下げて作り上げていただけることでしょう。篠崎さんが描いているイメージをどれだけニューフィルが表現できるかが、カギになってくるのでしょうね。
 きのうは、練習が終わってから指揮者を囲んでの飲み会がありました。会場の国分町のさる居酒屋は、なんだか不思議なお店で、飲み物を注文してもなかなか持ってこなかったり、お刺身を人数分配らなかったのでみんなで文句を言ったりと、ちょっとお店としてはどうかな、という感じでした。そこのメインは、こんな「鍋」でした。
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 なんか、初めて見る形の、いちおう「タンしゃぶ」なんだそうです。鍋というよりは、鉄板の真ん中に窪みがあって、その周りにキャベツの千切りとセリが土手のように積み重なり、その上に牛タンが乗ってます。窪みにはスープが入っていて、そこでしゃぶしゃぶをゆでるのですが、その間にまわりのキャベツにも火が通ってくるという仕掛けなんだそうです。
 しゃぶしゃぶを食べ終わったら、そこに「締め」の麺が運ばれてきました。それをスープで湯がいてつけ麺として食べるということなのに、いつまでたってもその「つけ汁」が来ません。
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 だから、もうそこにあったしゃぶしゃぶのタレに麺を入れて食べてしまいましたよ。そして、もう麺がなくなったころに、やっとゴマダレがやってきたのですよ。笑えますね。でも、また新しいスープと麺を追加してくれたので、許しましょうか。なんか、マジで店員と喧嘩しているメンバーもいましたね。
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 最後に店員さんに頼んで集合写真を撮ろうとカメラを渡したのですが、誰でも撮れるカメラなのに、なぜかその店員さんはシャッターが押せませんでした。それで、私がまず見本でシャッターの押し方を教えるために撮ったのが、これです。そのあと、学習したその店員さんが撮った写真には、私も入っていますよ。それは公式Facebookの方で。
by jurassic_oyaji | 2019-02-17 22:10 | 禁断 | Comments(0)