Thomas Hengelbrock/
NDR Sinfonieorchester
SONY/88843050542マーラーの、後に「交響曲第1番」と呼ばれることになる作品は、
1889年にブダペストで初演された後、
1893年に大幅に改訂されてハンブルクで再演されました。これが「ハンブルク稿」と呼ばれるものです。その録音は、以前
こちらでデ・フリエントによる演奏によって聴いていました。その時のタイトルが「交響曲の形式による音詩『巨人』」というものであることが、今回のヘンゲルブロックの
CDのジャケットに使われているこの稿による演奏会のポスターによって分かります。
初演の時に使われた
1889年稿はもう失われてしまっているのだそうですが、
1893年稿はその自筆稿のコピーが出回っていて、なんと
IMSLPでも公開されています(低解像度のファックスで送信されたような、ひどい画像ですが)。デ・フリエントが使っていたのも、この自筆稿のコピーです。ジャケットに楽譜が写っていますが、これはそのコピーの
154ページと
155ページ(第5楽章「9」付近)ですからね。
そんなわけで、この稿はまだ印刷楽譜は出版されてはいなかったのですが、このたび国際マーラー協会で編纂されている全集版の一環として出版されることになったのだそうです。ただ、
UNVERSALのサイトで見る限り、実際に楽譜の現物が発売になったという状態ではないようですね。これは、以前「交響曲第2番」のキャプラン版でもあったケースで、「出版された」と発表されてから数年たってやっと商品が世の中に出るという、不思議な現象です。あの時にもキャプラン版の「出版」にあたっては、かなり早い時期に「世界初演コンサート」というものが行われていましたが、今回もついこの間、5月9日にハンブルクのライスハレというところで、「世界初演コンサート」が開催されています。この
CDは、それに先立って、同じメンバーによって
2013年の5月と、
2014年の1月に録音されたものです。つまり、このコンサートの時にはすでにCDは出来上がっていたことになりますから、会場では即売が行われたのか、あるいは、入場者には全員にこの
CDが配られたのかもしれませんね(チケット代は、
CD込みだったりして)。
そのように鳴り物入りで発表された新全集としての
1893年稿ですが、どうやらその内容は自筆稿とはかなり異なったものになっているようです。楽譜そのものはまだ入手できないのですが、とりあえず
UNIVERSALのリストによれば、木管は
4-4-4-3、金管は
7-4-3-1と、自筆稿の
3-3-3-3/4-4-3-1よりも増えています。これは現行版(
4-4-4-3/7-5-4-1)とほぼ同じ編成です(ただ、ここでは「in 4 movements」などという記載がありますから、このデータを全面的に信用するのはちょっとはばかられます)。さらに、自筆稿による演奏を行っているデ・フリエント盤とは、聴いてはっきり分かる違いもあります。そのあたりを、現行版との違いなどとともにまとめてみましょうか。
◇第1楽章
スコアの1ページ目から、現行版との違いがゴロゴロしています。弦楽器のフラジオレットに乗って出てくる「ラ-ミ」というモティーフの楽器が違っていますし、現行版ではクラリネットとバスクラリネットで奏される軍隊ラッパの模倣は、
1893年稿ではホルンで演奏されていました。この部分は自筆稿も全集版も違いはありません。
↑現行版
↑1893年稿(自筆稿)◇第2楽章
「花の章」と呼ばれているこの楽章は、現行版では丸ごとカットされています。
◇第3楽章(現行版の第2楽章)
1893年稿の自筆稿にはあった、冒頭のティンパニは、全集版ではなくなっています。そして、この形が現行版にも継承されています。
↑現行版
↑1893年稿(自筆稿)◇第4楽章(現行版の第3楽章)
自筆稿では、冒頭の「フレール・ジャック」のテーマはコントラバス・ソロ+チェロ・ソロという「ソリ」の形ですが、全集版ではチェロ・ソロがなくなっています。これも現行版の形なのですが、実は現行版ではコントラバスはトゥッティというのが「新全集版」のスタンスです。
↑現行版
↑1893年稿(自筆稿)◇第5楽章(現行版の第4楽章)
1893年稿では、いずれも練習番号「
56」の後に、ティンパニが入っていましたが、現行版ではそれがなくなっています。
↑現行版
↑1893年稿(自筆稿)そして、最後のページでは、エンディングのティンパニとトライアングルとバス・ドラムのロールだけになるところが、自筆稿では3小節(×2)だったものが、全集版と現行版ではともに1小節(×2)に変わっています。
↑現行版
↑1893年稿(自筆稿)同じ「
1893年稿」と言いながら、自筆稿と全集版とではなんでこれほどの違いが出てしまっているのでしょう。それは、一次資料の選択の違いによります。なんでも、自筆稿以外に、マーラーは出版のためのコピーを作っていて、そこにマーラー自身がおびただしい改訂を行っているというのですね。全集版の校訂者(
UNIVERSALのサイトには、名前は明記されていません)は、こちらの情報をメインに校訂を行った結果、最初の自筆稿とはまるで違うものが出来てしまったのでしょう。
まあ、作曲家の意思を反映させたいという気持ちは分かりますが、この校訂者のおかげで、将来この「
1893年稿」に関しては少なからぬ混乱が生まれることは、目に見えています。おそらく、この全集版の「
1893年稿」は翌年のヴァイマールでの演奏の際に使われた楽譜にかなり近いものなのでしょうから、正確には「
1893/1894年稿」と表記すべきものなのではないでしょうか。したがって、「ハンブルク稿」という言い方も不正確です。というか、どうせマーラーはこの先さらに大幅な改訂を加えてしまうのですから、この中間形態である自筆稿を、なぜそのままの形で全集に入れてはくれなかったのでしょう。今回のような楽譜を出版するのは、まずそれをやってからの仕事なのではないでしょうか。ほんとに、余計なことをしてくれたものです。
聴いたのは輸入盤ですが、なんでも国内盤にはこの稿についての独自のライナーノーツが掲載されているのだそうです。おそらく、その内容をセールスポイントにしようとしているのでしょう、国内盤のキャッチコピーは「これまで誰も聴いたことのない衝撃のハンブルク稿」という扇情的なものになっています。これは「ハンブルク稿」とは別物なのですから、「誰も聴いたことのない」のは当たり前の話です。まさに「
笑劇」ですね。
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