おやぢの部屋2
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OHKI/Symphony No.5 "HIROSHIMA"




湯浅卓雄/
新日本フィルハーモニー交響楽団
NAXOS/8.557839J



かつて、「大木正興(おおき まさおき)」という有名な音楽評論家がいました。テレビやラジオでクラシック番組の解説をしていた非常に特徴のある顔としゃべり方をした方ですが、いかにも親しみやすい語り口の裏に姿をのぞかせていた陳腐な知識のひけらかしには、鼻持ちならないものをおぼえた記憶があります。もちろん、その様な人の業績が今日まで伝えられることは決してなく、今では誰も知る人もいない過去の人になってしまっています。
今回の「大木正夫」は、発音こそ似ていますが全くの別人、常に確固たる主張を持って生きていた、本物の音楽家です。1901年生まれ、という事は、「椰子の実」の大中寅二(1896年生まれ)や「春の海」の宮城道雄(1894年生まれ)などといったまさに日本の作曲界の創生期を担った人たちに限りなく近い位置を占めていたということになります。
おそらく、知名度としては、生前はそれこそ大木正興と間違えられてしまうほどで、決して高いものではありませんでした。というのも、彼が活躍していた場が例えば「労音」といった、左翼的な基盤を持ったところが中心だったせいなのかも知れません。やはり現金払いでなければ(それは「ローン」)。彼の代表作であるカンタータ「人間をかえせ」にしても、演奏されていたのは「コンサート」ではなく、「集会」のような趣を持ったものだったのではなかったのでしょうか。ある種プロバガンダのような性格をその中に見つけ出してしまわれれば、まっとうな音楽作品としての評価を得ることは極めて難しくなるのは、この国でのいわば「掟」です。
その様な作曲家の姿勢の、まさに先鞭を付けたものと位置づけられているこの交響曲第5番「ヒロシマ」、しかし、そこにあったものは、単に原爆の惨状を訴えるという表面的なメッセージにとどまらない、まさに「音楽」としての確かな訴えかけを持った極めて完成度の高い作品としての姿だったのです。特に、その独特のオーケストレーションの妙味は、作られた時代を考えると驚異的ですらあります。バルトークやストラヴィンスキーといった当時の「最先端」の音楽からの技法を取り入れただけではなく、弦楽器のハーモニックスを、まるでクラスターのように重ねると言った、まさに時代を超えた技法までものにしているのですから。ただ、そこで重要になってくるのが、本当に伝えたいものは古典的な手法に頼るという基本姿勢です。彼が敬愛したというベートーヴェンにも通じるようなテーマの設定によって、そこからは、誰でも一義的なメッセージは読み取ることが出来る程の明快さが生まれます。それと同時に、それらを覆う前衛的な仕掛けによって、それは単なる社会的な訴えかけを超えた「音楽」あるいは「芸術」といった次元にまで昇華しているのです。
そんな巧妙な二面性は、もしかしたら、作られて50年以上経った今だからこそ、その中に見出すことが出来たのかも知れません。今回が初録音となった湯浅卓雄の、実にキレの良いスマートな演奏も、1950年代では決してなし得なかったものであったに違いありません。
もう1曲、戦前の「日本狂詩曲」という作品は、うってかわって、いわば「右寄り」の趣さえ持とうかという、ナショナリズム礼讃の脳天気な曲です。しかし、この当時の作曲家としては、外国に負けないだけの自国の資産を信じて疑わなかったことは事実です。その様な、どんな状況にあっても強固な信念に基づいて音楽を作った大木正夫、その真摯な態度に、心を打たれないわけがありません。
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# by jurassic_oyaji | 2006-03-21 19:45 | オーケストラ | Comments(2)
James Bond Themes




Carl Davis/
The Royal Philharmonic Orchestra
MEMBRAN/222910-203(hybrid SACD)



6代目のジェームス・ボンドがやっとダニエル・クレイグに決まって、次の第21作目の制作が始まったという「007」シリーズですが、第1作が公開されたのが1962年、この新作「カジノ・ロワイヤル」が日本で公開される頃には「45周年」を迎えることになります。とてつもないシリーズになってしまったものです。
そうなってくると、数々の映画の中で登場した主題歌たちは、しっかり「クラシック」としての地位を獲得し、このような本物のクラシックのオーケストラのレパートリーともなって、この手のCDも数多く出ることになりました。しかし、お高くとまったクラシックの演奏家たちが、かつてご紹介したものほどの熱意を込めず、「たかが映画音楽」と手を抜くことを考えようものなら、彼らは手痛いしっぺ返しを食らうこととなるのです。
1曲目は、シリーズ全ての冒頭のタイトルを飾る「ジェームス・ボンドのテーマ」、このシリーズに切っても切れない縁がある作曲家ジョン・バリーの作品だと思われがちですが(私も最近までそう思っていました)実はモンティ・ノーマンによって作られた物だったのですね。この、あくまでスマートでかっこよくあるべき曲が、おそろしく野暮ったく聞こえてきたのが、そんな「手抜き」の一つの証でしょうか。何しろ、金管セクションの人達はただ譜面づらをなぞっているだけ、そこには原曲の持っているスウィング感などは微塵も感じられなかったのですから。
2曲目の「ロシアより愛を込めて」(これも、ジョン・バリーではなく、ライオネル・バートの曲だったんですね)では、こういう編成での最大の魅力である流れるように芳醇なストリングスの醍醐味が味わえることを誰しもが期待するはずです。ところが、「本職」であるはずのこの弦楽器セクションのやる気のなさと言ったらどうでしょう。もしかしたら、コストを削減するために大幅にメンバーを少なくしたのかと疑いたくなるほど、それは情けない響きだったのです。
3曲目の「ゴールドフィンガー」(ここでやっとジョン・バリーの登場です)では、アレンジの拙さが露呈されます。ニック・レーンというアレンジャーは、元ネタの「ここだけは外せない」という美味しい部分を全く無神経に変えてしまったのですからね。この曲の冒頭で最もかっこよく聞こえてくるはずの「パップヮーッパーッ」というホルンのフレーズを、「パ、パ、パ、パ、パー」と言う間抜けな形で吹かせている神経は、全く理解できません。
ところが、ジョージ・マーティンが音楽を担当した「死ぬのは奴らだ」での主題歌、ポール・マッカートニーとウィングスの「Live And Let Die」になったとたん、みずみずしいグルーヴが蘇ってきたのには、ちょっと驚かされました。そう感じたのは、この曲が、ちょっと今までとは毛色の違ったアレンジのプランによるものだったからかもしれません。ここではオリジナルのマーティンのアレンジをかなり忠実になぞっていて、メインヴォーカルの部分にはファズ・ギターをフィーチャーしています。もしかしたら、「本物の」ロック・ミュージシャンが参加することによって、今までかったるい演奏に終始していたロイヤル・フィルのメンバーが、見事にやる気にさせられてしまったのかも知れませんね。
同じようなことは、きちんとしたリズム・セクションが入った最後の「ゴールデン・アイ」でも見られます。自分たちだけの力では「たかが」映画音楽にさえ命を吹き込むことが出来なかった「クラシック」の演奏家、今活況を呈している「ライト・クラシック」とか言う分野では、このような醜態にいとも簡単に出会うことが出来ます。そんなことでええがね。
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# by jurassic_oyaji | 2006-03-19 19:39 | ポップス | Comments(0)
Le Cantique des Cantiques




Anders Eby/
Mikaeli kammarkör
FOOTPRINT/FRCD 011



アルバムのサブタイトルが「フランス語による合唱音楽」、ア・カペラ混声合唱による「フランス語」がテキストとなった4人の作曲家の作品が集められています。有名なドビュッシーの「シャルル・ドルレアンによる3つのシャンソン」が1904年に作られていますが、他の3曲はいずれも20世紀半ば以降の作品です。
表題の「ソロモンの雅歌」は、もちろんパレストリーナの作品で有名な、旧約聖書の「雅歌」からテキストが取られたものです。これを作った1908年生まれのフランスの作曲家、ジャン・ダニエル=ルシュールは、ブーレーズやジョリヴェなどと「若きフランス」というグループを結成していたことでも知られていますね。1952年にマルセル・クーロー(この合唱指揮者の手によって、クセナキスの「夜」や、メシアンの「5つのルシャン」など、数多くの名曲が命を吹き込まれました)に委嘱されて作ったこの曲は、彼の最も有名な曲として世界中で演奏されているそうですが、私が聴いたのはこれが初めてです。
しかし、スウェーデンの合唱団、ミカエリ室内合唱団は、その私の初体験を、いかにも棒読みのような薄っぺらなフランス語の発音で、いささか白けさせてくれました。これが発音だけの問題に終わらないのが、ちょっと困ったところです。「北欧」と言われて連想されるようなキッチリしたハーモニーが、なかなか生まれてこないもどかしさ、ちょっとした「ゆるさ」が、そこにはあったのです。私の過大な期待に対する見返りがこれなのか、と思い始めた頃、5曲目の「禁断の庭」になった途端、今までとは全く異なる明晰な響きが聞こえてきたのは、この曲がセミコーラスで演奏されていたからでしょう。ピックアップメンバーによるこの曲からは、怪しいまでのエロティシズムさえ漂ってくるような、真に迫った表現が感じられたのです。トゥッティでもこの水準が維持されていれば、何も言うことはないのですが。
フランセの「ポール・ヴァレリーの3つの詩」では、いくらか立ち直りを見せてくれたでしょうか。3曲目の「妖精」での、伴奏の軽やかなリズムパターンなどは、彼一流のの軽妙な持ち味をよく引き出しているものです。
ただ、多くの名演を体験してしまっているドビュッシーでは、この程度の演奏ではちょっと踏み込みが浅いと感じてしまうのは、仕方のないことでしょう。ディクションの欠点はここでも露呈されていて、言葉のイントネーションが活かされていない平板な表現に終始しているという印象は拭うことは出来ません。2曲目のアルト・ソロの、何とかったるいこと。
最後の曲は、ドイツの作曲家ヴェルナー・エックの「3つのフランス語の合唱曲」です。これがあったから、アルバムタイトル(サブタイトル)も「フランスの~」となっていたのでしょうね。1940年にバレエの中の曲として作られた物ですが、なぜか、この曲に最もシンパシーをおぼえてしまったのは、演奏家との相性が最も良かったせいなのかもしれません。ドビュッシーと同じ、シャルル・ドルレアンのテキストを、いかにもフランス風のハーモニーで包み込んだ作品、しかし、そこには明らかにドイツ音楽の論理性が見え隠れしています。不得手なフランス語でつい馬脚を現してしまったスウェーデンの合唱団、しかし、言葉に関しては同じような境遇にあったこの作曲家の作品からは、見事なまでの共感を引き出すことが出来たのでしょう。
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# by jurassic_oyaji | 2006-03-17 19:34 | 合唱 | Comments(0)
BACH/Variations Goldberg





Erik Feller(Org)
ARION/ARN 68673



バッハの有名なクラヴィーア曲に付けられた「ゴルトベルク変奏曲」というタイトルは、言ってみればベートーヴェンの「運命」のように、後に付けられた俗称です。それぞれの変奏が「アイアン」とか「パター」だと(それは「ゴルフクラブ変奏曲」)。正式なタイトルは「クラヴィーア練習曲集:アリアと様々な変奏Klavierübung:Aria mit verschiedenen
Veränderungen
」という素っ気ないものです。ここで指定された楽器「クラヴィーア」というのは、現代では殆ど「ピアノ」と同義語になっていますが、本来は「鍵盤楽器」という意味、従って、バッハの時代には普通はチェンバロで演奏されました。もちろん、その他の鍵盤楽器、クラヴィコードや、あるいはその頃すでに作られていたフォルテピアノで演奏された機会もあったことでしょう。それから一歩進んで、同じ鍵盤楽器なのだから、オルガンで演奏しても良いじゃないか、という事で、録音されたのがこのCDです。元々の譜面は2段鍵盤のために書かれているものですから、それを2つの手鍵盤で演奏すれば、特に編曲などはしなくてもそのまま音になります。これは、ちょっと盲点をつかれた素晴らしいアイディアではないでしょうか。
という程度の軽い先入観で聴き始めたのですが、すぐさま、どうも状況はそんな単純なものではなかったことに気づかされることになります。「アリア」が、「Schwebunk」という、ビブラートのかかったストップで聞こえてきた時、それは紛れもないオルガン曲の響きを持っていたのです。ここで使われている楽器は、フライブルクの教会にある1735年にゴットフリート・ジルバーマンによって制作されたもの、もちろん、最近修復はされていますが、基本的な構造は変わっていませんから、「トラッカー・アクション」という、鍵盤からパイプを開閉させるまでのメカニックなシステムのノイズがかなり大きく聞こえます。そのノイズは、あたかも禁断の世界への入り口を開くパスワードであるかのように、私達をバッハの時代のオルガンの世界へと導いてくれたのです。バッハ自身がこの楽器を演奏したことはありませんが、そこにあったのはまさにバッハの時代の教会に於けるオルガンの響きそのもの。そう、雇い主の不眠症を解消するために作られたという穏やかなアリアは、オルガンで演奏されたことによって、まるで敬虔なコラールであるかのように聞こえてきたのです。
それに続く変奏には、ですから、オルガンならではの多彩な音色の変化を味わえる楽しみが待っています。まず、同じ変奏の中でも繰り返しで必ずストップを変えているのが素敵。第2変奏で出てくる「Vox Humana」というストップの鼻の詰まったような幾分ユーモラスな響きも、耳をひきます。第7変奏で現れる「トランペット」というリード管も、まるでフランス風のノエルのような軽快さを与えてくれます。第8変奏では「Vox Humana」と「Schwebunk」が一緒になって、ちょっと危うげなすすり泣きのような効果が出ています。次の第9変奏では、ペダルまで加えたフルオルガンによる壮麗な、まさに音の建造物といったスペクタクルサウンドが味わえますよ。かと思うと、第13変奏や第25変奏のような装飾的なメロディはまさにオルガンの独壇場。16変奏の「序曲」も、フルオルガンでチェンバロでは到底表現できない分厚い世界を見せてくれています。それと対照的な第21変奏のような静謐な世界。最後に「アリア」が再現される時にも、冒頭とは微妙に異なるレジスタリングで、楽しませてくれています。
まるで最初からオルガンのために作られたような顔を見せてくれた「ゴルトベルク」、ここでも、演奏される楽器を特定しなくても成り立つという、バッハの曲の持つ強固な普遍性が明らかになりました。
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# by jurassic_oyaji | 2006-03-15 19:59 | オルガン | Comments(0)
タケミツメモリアル
「コール青葉」の本番で、東京オペラシティのコンサートホールへ行ってきました。今回は「禁断あばんちゅうる」からの番外編おやぢ写真集です。
楽屋口からエレベーターに乗って、降りたところが舞台裏、こんな、今までここを使った団体のステッカーがベタベタ貼ってあるロッカーがありました。

これが、舞台から見たコンサートホールの客席、これだけは、実際に舞台に立たない限り見られない光景です。

これは、思い起こすだに、凄い演奏会でした。演奏自体はさておいて、その多彩なゲストのことです。まずご紹介したいのは、録音関係の機材(って、ゲストですか?)。この写真、ミラーボールのように見えるのがメインマイクです。ショップスのKFM 6という、球形マイク、私は初めて目にしたマイクです。

そして、ステージの床の上にさりげなく置かれていたのが、この「BLM(バウンダリー・レイヤー・マイク)」。これは、写真だけでは知っていた半球状の指向性を持つ、やはりショップスのBLM 3gと言う特殊なマイク、もちろん実物を拝見するのは初めてです。

ステージ裏に置いてあったのが、なんと「DSD」のレコーダー、SACDのスペックで録音できるものではありませんか。

チェレスタで参加してくださったのが、「津和野の風」の作曲者、森ミドリさんです。もう一つの安野さんとの共作「津和野の子守歌」という女声合唱を、この楽器(ミュステル)で伴奏してくださいました。実はこの楽器ももはや製造はされていないというヴィンテージもの、機能本位の「ヤマハ」などとはひと味違う鄙びた音色を奏でてくれていましたね。

その「津和野」の安野さんも、打ち上げの時間には四国へ旅立つということで、ゲネプロのあとに御挨拶です。こんな間近で接したのも初めて、可愛らしいおじいちゃんという感じでした。本番の時もステージに呼び出されたのですが、客席からステージに登る階段がなかったので、森さんと指揮者が二人がかりで抱え上げてましたっけ。

ピアノの小原さんは、帽子がポイント。これはゲネプロの時の黒い帽子、本番ではそれをかぶらないで粋なヘアスタイルを披露、アンコールの時には白い帽子で登場して湧かせてくれました。彼の伴奏は毎回異なったバージョンになるのですが、本番のものはそのどれにも増してアイディア豊かなものでした。

そして、サプライズ・ゲストが、打ち上げで突然紹介された作曲家のMさん。もちろん、この日に演奏された男声合唱の古典ともいうべき名曲を作ったその人です。

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# by jurassic_oyaji | 2006-03-13 20:37 | 禁断 | Comments(0)